長谷部浩ホームページ

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2017年6月10日土曜日

【劇評79】幸四郎の若さ、吉右衛門の情理。六月歌舞伎座。

歌舞伎劇評 平成二十九年六月歌舞伎座 昼の部、夜の部


六月の歌舞伎座。昼の部の『弁慶上使』、夜の部の『一本刀土俵入』と円熟の境地にある幸四郎、吉右衛門のすぐれた舞台が並んだ。
まずは『御所桜堀川夜討 弁慶上使』。義経の子を懐妊した卿の君(米吉)は、侍従太郎(又五郎)の館に身を寄せている。そこへ武蔵坊弁慶(吉右衛門)が、卿の君の見舞いのために使者として訪ねてくる。
米吉はこの館に腰元として仕えるしのぶと二役。しのぶは母おわさ(雀右衛門)が館に訪ねてきて再会できるのを楽しみにしている。ふたりが喜ぶのも束の間、実は、頼朝から弁慶には、卿の君の首を差し出せと命がくだった。弁慶と侍従太郎夫妻は、卿の君と姿形がよく似たしのぶを、身代わりとして差し出すことを決意した。
舞台中央で、さまざまな来歴をひたすら聞いている弁慶の苦渋。吉右衛門は、受けをねらう小さな芝居を徹底して排する。ただ、大きく全身で、悲劇へと至る道筋を耐えている。この武家社会の論理を理としては受け入れつつ、情としては胸が張り裂けそうになっている。ひとりの男の追い詰められたありようが、辛抱立役で知られた名優のたたずまいにこめられている。こうした人間の裂かれた思いに心を通わせるのが歌舞伎の愉しみのひとつだった。
しのぶにその身代わりとなってもらいたいとの願いが、侍従太郎とその妻花の井(高麗蔵)からもたらされる。ところがしのぶの出生を詮索すると、若き日のおわさと契りを交わし、しのぶをもうけた稚児とは、現在の弁慶であるとわかる。しのぶは、今、身代わりを迫る弁慶とおわさあいだに生まれた子供なのだった。過去が急速に現在を侵食していく。この残酷さにひたすら耐えているおわさの人間像を雀右衛門は安定した技倆で描き出した。襲名も後は、巡業を残すだけだが、雀右衛門となった芝雀は、一回り大きな立女形としての風格をそなえるようになった。
しのぶの首ととともに、疑いを招かぬ為に侍従太郎の首もともに差し出すことになる。赤と黒、二色の布に包まれた首を両脇に抱えて、弁慶は花道を去る。地面を踏みしめつつも、その足には一歩一歩、刃が突き刺さるような足取りではなかったか。吉右衛門の長年培った身体と内心の関係が凝縮されたような引っ込みであった。
夜の部の見物は幸四郎による『一本刀土俵入』。言わずと知れた長谷川伸の人情劇だが、相手役に猿之助のお蔦を得て、芝居が切々として辛くなった。なにより序幕第一場の幸四郎が、水際だった若々しさでこの人の技倆の充実を思う。猿之助は、現・勘九郎とともにこの芝居を演じた浅草公会堂での名舞台があるが、歌舞伎座ではがらっと変えて、すがれた様子がいいばかりではない。後半はすっきりとした女ぶりをみせ、長谷川伸らしい芝居となった。観客をうならせる。
安孫子屋酌婦の三人、笑三郎、幸雀、段之がさびれた田舎町の淋しさ、哀しさを伝え、また「布施の川べり」では、船の修繕をする錦吾、由次郎、巳之助が、のどかな午後に、ひとりの渡世人が現れ、日常が裂かれた様子を活写する。
後半、渡世人となってからの幸四郎も優れている。押さえた感情のなかに、かつてのお蔦への感謝、そして渡世人に成り果てた自分への後悔が存分に伝わってきた。松緑の辰三郎、松也の根吉。
より抜きの狂言のなかで、もう一本。仁左衛門の『御所五郎蔵』は、左團次の土左衛門、雀右衛門の皐月、米吉の逢州、歌六の甲屋与五郎を得て、水準を抜く出来である。仁左衛門の特長は、徹底したリアリズムにある。序幕の五條坂仲之町はさすがに様式美で通すが、二幕目になってからは、皐月に縁切りされた屈辱、土右衛門とその一党への憤怒など、受けの芝居も徹底して心理を重く見る。そのため、男伊達のいい男ぶりを描いた世話物が、男伊達が奸計によって失墜していく芝居へと変容した。賛否はあるだろうが、こうした様式に貫かれた世話物も新たな解釈をほどこす余地が十分あるのだと確認できた。
昼の部は松緑の新助による『名月八幡祭』台詞の間が噛み合わず、劇としての高揚感にまで至らぬのは残念。猿之助の『浮世風呂』は、洒脱な芸風によくあって、小気味よく踊る。種之助のなめくじも力まず、ゆかいに踊っている。
夜の部は雀右衛門、松也、そして幸四郎の『鎌倉三代記』。時代物の難物だが雀右衛門が三浦之助への思慕を丁寧に描く技術の確かさが目立った。幸四郎が軽みをみせ、一転して重厚に変わる確かな芝居。
これまでにない新鮮な顔合わせもあり、現代の歌舞伎が動き出していると実感できた。二十六日まで。

2017年5月28日日曜日

【劇評78】安全な食をめぐって。イキウメの新作

現代演劇劇評 平成二十九年五月 東京芸術劇場シアターイースト 

現代演劇の地図は、蜷川幸雄の死によって大きく変わりつつある。そのなかで、野田秀樹やケラリーノ・サンドロヴィチとともに重要な位置を占めるのは、前川知大とイキウメである。奇想にとんだ劇作、役者の身体を生かした演出、個性的で観客への訴求力のある俳優。現在最高の水準を保つ劇団のひとつである。なかでも俳優たちが、演技に誇りと自信を持っている姿を観るとすがすがしい気持になる。
新作『天の敵』(前川知大作・演出)は、二〇一○年に初演されたオムニバス『図書館的人生VOL.3 食べもの連鎖』に納められた「人生という、死に至る病に効果あり」を長編に改稿した舞台である。初演からこの魅力的な題材は、群を抜いていた。人類が誕生してから現在まで、決して手にすることができなかった不老不死の可能性を問い詰めている。
ジャーナリストの寺泊(安井順平)は、妻の優子(太田緑ロランス)に紹介されて料理研究家の橋本(浜田信也)の教室を訪ねる。菜食主義に至ったその来歴を聞くうちに寺泊は、橋本の数奇な物語に引き込まれていく。
本来ならば当年一二二歳になる橋本は、戦前に独創的な食事療法を提唱した医師、長谷川卯太郎その人だった。前川の作は巧妙な作劇を仕掛けている。この不老不死の物語を聞く寺泊は、現在難病をかかえており、子供も幼い。この奇妙な食事療法を実行すれば、自らの死が回避できるかも知れない。そんな寺泊の切実な動機によって、信じがたい物語が説得力を持つ。
『太陽』でも日の光が主題のひとつとなっている。太陽を忌避しなければならぬ宿命となった人間の屈折もまた胸を打つ。
現在を過去を交錯させる前川の劇作、小道具を巧みに用いて過去が現在へとなだれこんでいく前川の演出。いずれも「騙り」の技術に裏打ちされている。
ストーリーテラーによる奇譚に終わらないのは、なぜか。食事は人間の生命の根幹にあり、安全で危険の少ない食材は、富によって独占されかねない。いや、現在でも寡占されているのではないか。そんな問いが頭をもたげてくるからだ。他者を犠牲にすることによって、自らの生存をはかる。そんな人類の残酷な歴史までもが、この食をめぐる物語には凝縮されている。小野ゆり子が巧みな演技を見せる。明晰な村岡希美の台詞回し。六月四日まで。