長谷部浩ホームページ

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2017年12月14日木曜日

【劇評95】大女優の名演。大竹しのぶの『欲望という名の電車』

現代演劇劇評 平成二九年十二月 Bunkamuraシアターコクーン


大女優という言葉がある。私の世代では、文学座の杉村春子が、この名にふさわしい存在であった。今、思い返すと、単に女優としてのスケール感があるばかりではなかった。貴族を演じてすぐれているばかりではなく、庶民を演じてリアリティを備えていた。また、声がよく台詞回しにすぐれ、細部の技巧に秀でた女優がある年代に達したときに、大女優と呼ばれるのだと思う。
二○一七年の現在、大女優といえば、大竹しのぶの名前がまず浮かぶ。この呼び方がしっくりくるようになったのは、実は最近のことで、今年四月の『フェードル』のタイトルロールで決定的になった。その貫禄は、蜷川幸雄演出の、『欲望という名の電車』(二○○二年)『王女メディア』(二○〇五年)ですでに認められた。このいずれもが、Bunkamuraシアターコクーンで上演されている。
今回、大竹しのぶは再び、テネシー・ウィリアムズの『欲望という名の電車』のブランチに挑んでいる。翻訳は前回と同様、小田島恒志、演出はフィリップ・ブリーンである。演出家が異なるから、単純に演技を比較するのは意味がないが、二度目になるブランチは、狂気を大づかみに捉えるのではなく、細部へと徹底して還元した。まさしく大女優ならではの演技であり、全体と部分が複雑にからみあっている。大竹のブランチは、自分がコントロールできない狂気を演じるにあたって、緻密な細部の構成がなされており、リアリズムの極みにある。
まず、客席を通っての登場がいい。
思い詰めた表情、少し固くなった身体、しっかりと前方を見定めながらも焦点が結ばない目。台詞が放たれる前から、ブランチのなかに得体の知れない怪物が宿っていると雄弁に語っていた。
ベル・レーヴをめぐるスタンリー(北村一輝)との争い、ステラ(鈴木杏)との対立と共感、ミッチ(藤岡正明)との駆け引き。いずれも変幻自在で飽きることがない。
演じることによってこれまでの人間関係を切り抜けてきたブランチの刹那的な生があからさまになる。また、そうした生を選び取らざるを得なかった理由が、自ら生を絶った夫への悔悟にあるとわかる。ワルシャワ舞曲とともに蘇ってくる記憶の怖ろしさが、大竹の演技によって観客に否応もなく襲いかかってくるのである。
スタンリーによる告発、ミッチの離反、そして、過去を取り繕うのを止めていかがわしいホテルを、フラミンゴではなくタランチュラと断ずるときの戦慄が忘れがたい。大女優とは、演技によって、自ら断崖を飛び降りる勇気をもった憑依する者の別名であった。
北村一輝のスタンリーの冷酷、鈴木杏のステラの包容力、藤岡正明のミッチの混乱と絶望、いずれも大竹のブランチをいっそう輝かせる。ブランチの狂気が、周囲の人々を破滅の瀬戸際まで追い込んだとよくわかる。
ブリーンの演出は、一言一言への緻密な読解によって成り立っているよくわかる。ブランチが夫の死に立ち会った事件を、寓意的ではあるが、実際に視覚化して演じてしまう演出など、説明的に過ぎるのではないかとも思う。つまりは、ブランチの内面にあるイメージを具体化してしまう結果になり、観客の想像力を信じない演出に思えてくる。『欲望という名の電車』を、もっともだれもが知っている古典ではなく、新たに発見された物語として蘇らせるには、こうしたわかりやすさも必要なのだろう。
大竹の速射砲のように放たれる台詞は、陰影に富む。ちょっとした目線の動きが、瞬時に変化した心の動きを語る。そのたぐいまれな技藝を見逃すのは、私たちの人生にとって大きな損失となるだろう。

2017年12月8日金曜日

【劇評94】玉三郎が高い藝境を示す『瞼の母』

 歌舞伎劇評 平成二十九年十二月 歌舞伎座第三部

第三部は玉三郎が座頭。俳優としての魅力はもちろんだが、芯に立つ役者としての統率力、透徹した美意識に対する信頼が、玉三郎の舞台を支えているのだろう。客席を熱い観客が埋めていた。
第三部はなんといっても長谷川伸の名作『瞼の母』を玉三郎のおはま、中車の忠太郎が人間の心の振幅を全力で、しかも精緻に描き出し高い水準の舞台となった。
いまさらながら長谷川伸の戯曲が巧みである。序幕、萬次郎の半次郎母おむら。大詰第一場では、玉朗の老婆。第二場では歌女之丞の夜鷹おとらと、母の幻を辿る旅が重なる。中車の忠太郎は、生き別れた母を恋い慕いつつ、みずからのルーツを見定めなければいられない人間の宿命を導き出す。あえていえば、零落した老婆たちをいたわるだけではない。一方で冷ややかに突き放すそぶりも垣間見えて深い。失われた母を探す旅は、きれいごとではない。なぜ捨てたのだと、うらみ、悲しむ心がひしひしと伝わってくる。
そして第三場、眼目となるおはまの居間。一言でいい。母よ、子よと名乗りあいたい半次郎の心情。そしてやがて諦め、怒りがこみあげてくる過程が克明に描写されている。また、玉三郎のおはまは、重厚かつ圧倒的。すばらしい藝境に至っているとわかる。梅枝のお登世の未来への憂い、やくざものと関わることの怖れ、過去の自分への自責の念。母よ、子よと抱き合いたいのにそれもかなわない。かなわない心の内にこそ、劇が宿っている。人間が生きている。平成の世が閉じようとする今、人間の苦渋を、単なる台詞劇でもなく、歌い上げる人情劇にも終わらなかった。人間の生を全身で演じきる劇として『瞼の母』は成立していた。石川耕士演出。
続いて玉三郎が折に触れて取り上げてきた『楊貴妃』。能楽の形式を取り入れつつも、京劇の身体技法、歌舞伎の演出を取り入れて独自の優美な世界を屹立させている。中車の方士も神妙に、落ち着いて勤めている。二十六日まで。