長谷部浩ホームページ

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2015年2月17日火曜日

【エッセイ2】野田秀樹の軌跡2

自然に向って開かれた空間を求めて
 八五年の第二六回公演『白夜の女騎士』からは、本格的な全国ツアーを行っている。紀伊國屋ホールで幕を開け、芦屋市ルナ・ホール、名古屋市民会館中ホール、広島市東区文化センター、岡山市立市民文化ホール、福岡市立少年科学文化会館ホールをめぐり、ステージ数は、四一回、観客数は二万三七五六人を数えている。『石舞台星七変化』と名付けられる三部作のはじまりである。
 『彗星の使者』は、科学万博―つくば`85エキスポホールで上演されたのも思い出深い。ニーベルンゲンの指輪を下敷きにした神話世界は、より開放感のある空間を求めていた。
 その頂点となるのは、『白夜の女騎士』『彗星の使者』『宇宙蒸発』を一日で一挙上演した舞台であろう。
一九八六年六月、バブルは頂点に達して、時代は浮かれていた。国立代々木競技場第一体育館で行われた公演は、演劇は劇場にあるものという常識を覆して、事件としての演劇を希求していたように思う。オリンピック用に建てられた体育館で、客席との距離は遠く、音響も最悪である。このような上演形態で、作品の実質を確保できないのは、もとより承知の上だったろう。
 のちに、私は夢の遊眠社の解散にあたって、まとまったインタビューを行う機会があった。一九九二年の八月の時点で、野田はこの時期を振り返って、「つくば万博に出ようと思ったのは、芝居はもちろんお祭りの近所にいるのが正しい姿だろうし、事件にならなくちゃいけないんだというのはありました。今、マスコミとか情報誌とかの事件のつくり方というのが、事件のように見せる切り口がパターン化して、結局、事件じゃないんですよね」(前掲書 四六二頁)
 と、当時の考えを示している。

 初の海外公演を行ったのは、八七年八月、エジンバラ国際芸術祭に参加した『野獣降臨』である。出発前、言葉遊びに満ちた戯曲の言葉をいかに日本語を母国語としない海外の観客に伝えるか、野田は腐心していた。
 野田は、字幕やイヤホンガイドを取らず、DJの小林克也を起用し、舞台上手に文楽の義太夫のような役割を与えて、筋の説明を劇の一部に織り込んでいく方法を取った。めずらしく私のところに制作から連絡が入り、海外公演にそなえて劇場を借り切っての舞台稽古を行うから来てほしいとの求めがあった。通し稽古が終わって、野田、演出補の高都幸雄と私の三人で、問題点を洗い出したのを覚えている。
 私がすでに批評家になっていたこともあって、駒場小劇場からこの時点までは、ほとんど個人的な接触はなかった。
 インタビューのような公式の場で会うことはもちろん何度もあった。しかし、終演後、楽屋を訪ねた記憶がない。お互い若かったのだろう。作り手と批評家は一線を引かなければいけない意識が強かった。
 私は『定本・野田秀樹と夢の遊眠社』の監修をし、野田のほとんどの作品について劇評を書いてきたけれども、夢の遊眠社およびNODA・MAPのパンフレットに原稿を書くのは、この文章がはじめてである。ずいぶん意地を張り合ったものだと思う。余談だが、NODA・MAPの制作スタッフから、私の劇評が、熱心なファンの間で「裏パンフ」と呼ばれていると聞いたことがある。これには笑った。

中座の座長部屋にて
 野田秀樹が公演を行った劇場のなかでも、特に思い出深いのは、ともに『贋作・桜の森の満開の下』を上演した京都・南座(八九年)と大阪・中座(九二年)である。
 伝統演劇の色彩と空間配置は、初期から野田秀樹の演出に影響を与えていると思うが、南座は、出雲の阿国が歌舞伎をはじめた鴨川べり近くにある歌舞伎劇場であり、中座は、長く松竹新喜劇の藤山寛美が拠点とした劇場であった。中座では、旅の気安さもあって、野田を楽屋に訪ねた。古風な芝居小屋の雰囲気を残した劇場である。もちろん座長部屋である。作品の話もひとしきり終わって雑談となった。
 「野田さん、ここって寛美さんが寝泊まりしていた座長部屋じゃありませんか?」
 「え、知らなかった。一度泊まってみようかな」
 巨額の借財に追われつつも、夜の遊びをやめなかった喜劇の巨頭の血と汗がしみついた楽屋に野田秀樹がいるのが、不思議な気がした。きょとんとした野田の表情を今でもおぼえている。
 その日、公演終了後、客席にハンドバッグが残っているが、客が見当たらないという事件が起きた。忘れ物かと思ったが、取りに来ない。奈落まで探したが、どこにもいない。怪談話である。彼女は、今も中座の跡をさまよっているのだろうか。
 劇団主催の公演ばかりではなく、東宝や銀座セゾン劇場主催の公演に主に劇作家・演出家として進出していったのも、この時期の特徴であろう。
 八六年『野田秀樹の十二夜』(日生劇場)、八九年『野田版・国性爺合戦』(銀座セゾン劇場)、九○年『野田秀樹のから騒ぎ』(日生劇場)、九二年『野田秀樹の真夏の夜の夢』(日生劇場)である。
 銀座セゾン劇場は中劇場の範疇にあると思うが、日生劇場のような商業演劇の大劇場に、演出家として招かれた野田を見るのは、こころのすみにどこか引っかかりがあった。
 シェイクスピアや近松門左衛門の翻案に異議があったわけではない。むしろ作品は、単なる翻案にとどまらず、野田独自の奇想にあふれたオリジナルにちかいものであった。スケールの大きな舞台で、潤沢な予算のもとに、自在に演出する野田を見るのは新鮮な体験だった。
 九二年の『野田秀樹の真夏の夜の夢』のときだったと思うが、どういう風の吹き回しか、東宝の制作に楽屋に案内された。終演後ではない。幕間である。大竹しのぶらのメインキャストたちと、幕間に談笑する姿を見て、いけないものを見てしまったような気がした。私も狭量だったと思うが、野田がどこか華やかな世界に連れ去られていった寂しさがあったのだと思う。
 もちろんこれは裏話に過ぎない。
 こうした商業演劇の世界で野田は、才質にめぐまれた俳優が、野田が独自に編み出した演技術に、正面から取り組んでくれるよろこびを味わったのだと思う。劇団のメンバーが野田の演技術をまねてくれるのは、その成り立ちからして自然である。大竹しのぶはじめ、毬谷友子、唐沢寿明、堤真一、橋爪功らの才能が、野田の才能に惚れ込み、自らの演技スタイルに固執せず、野田の演出に身をゆだねているのがわかった。
 もとより、野田秀樹の演劇界での商業的な成功は、頂点に達しつつあった。九○年の『半神』は、シアターアプルで幕を開けて、全国を巡演したが、ステージ数は六十九。観客動員は六万人を超えた。『三代目、りちゃあど』では、東京グローブ座を公演場所に選んだ。どこの劇場の制作も野田と仕事をするのを望んでいたであろう。芸術性と大衆性の綱渡りのできる劇作家・演出家は、もとより少数である。演劇界のエースをどの劇場が獲得するかが話題となっていたのである。

すべての集団には終わりがある。
  九二年の九月、『ゼンダ城の虜』をシアターアプルで上演して、夢の遊眠社は解散した。歌舞伎町の深部にあるこの劇場は、どこか陰気で、ここで解散公演かと溜息をついた。このときも、ゲネプロに呼ばれたのをおぼえている。長年、ともに走ってきた評論家への配慮だったのだろうか。久しぶりに芯となる主役を務めた野田が、場面を終えると舞台から降りて、廊下にそなえつけたモニターへと走り、自分の演技をチェックしていた。暗い廊下が悲しげに思えた。
 解散の理由については、先のインタビューで野田は以下のように答えている。
 「今稽古していて、まだ二日か三日ですけれど、やっぱりいいですよね。集団としてはいい劇団だったなと思うし、ちょっとよぎりますよね。おれ、なんでこんなところを解散しようとしているのかって(笑)。でも、解散すると言ったから、つくづくいい劇団なんだなと今稽古しながら思うんだけど、解散していなければ、今この稽古場にいて、やっぱりずっと何かひっかかりがあったと思うんですよ。本当にこれを繰り返していて自分は満足するんだろうかというのが絶対ある。今解散して、つまり今死ぬと明言したから、すごく生きているんだと思うんですよ。そういうことって、すごく集団には必要なことだと思うんですよね」(前掲書 四六四頁)