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2015年3月10日火曜日

【劇評12】『髪結新三』の新たな展開

  【歌舞伎劇評】平成二十七年三月 国立劇場 『髪結新三』の新たな展開

『髪結新三』は、河竹黙阿弥の代表作といっていいだろうと思う。七五調の音楽的な台詞を粋な身体のこなしとともに見せる。時鳥の啼き声、初鰹を売る声、「薩摩サア」の黒御簾。音、音楽が重要な役割を果たす狂言である。
私たちは七代目菊五郎、十八代目勘三郎の手に入った名演になじんでいるので、橋之助の新三に違和感を感じてしまう。特に序幕、白子屋見世先の場では、台詞が流麗に流れず、しかも忠七に駆け落ちを焚きつける件りでは、声が太く、張りすぎている。また、身体のまろやかな愛嬌が欠けるために「一銭職」のへりくだった感じがない。いいかえれば武張った新三で、町人で博奕打ちの空気が薄いのである。
永代橋川端の場も同様で、新三、忠七のやりとりには年輪が必要なのだろう。まるで武士が町人をいじめているかのようで、橋之助がこの役を手に入れるには、課題はまだまだあると思う。
ただ、菊五郎劇団のような脇の手練れがいないにもかかわらず、新しい配役を組んだために収獲があった。もっとも瞠目させられたのは、家主長兵衛の團蔵である。もともと敵役を得意とするが、ここでは家主の貫禄でぐいぐいと新三をやりこめていく。論理ではない。破綻した論理でも押し込んでいく小さな権力者の横暴がよく出ている。左團次、彌十郎の後を追うのは、團蔵になるとすれば、『助六』の意休も射程に入ってくる。
萬次郎の家主女房、秀調の善八はいずれもこなれていて、そのため家主長兵衛内での、團蔵、萬次郎、秀調のやりとりに破綻がなく、もっとも芝居になっている。
門之助は本来、忠七はこうあるべきだと思わせる仁と柄があるので、回数を踏めば、女形から来た忠七を寄せ付けない芝居を見せるのではないか。可能性を感じさせた。
錦之助の弥太五郎源七は、癇性なところがいい。新三にやりこめられるときの怒りを押さえつける表現にすぐれる。ただし、閻魔堂では橋之助の貫禄に押されている。落ち目の親分という役回りを考えれば、このバランスでもよい。
国生の勝奴は、裏での仕事の多い至難な役。深川の気の利いたおあにいさんの粋を追求するべきだろう。新三の次を狙う一癖ある男という造形だが、「次」ではなくあくまで「次の次」だ。今現在は、機知と愛嬌で新三に可愛がられ、大家にも子守を追い回しているとからかわれるくだりを自然に見せたい。
児太郎の白子屋お熊。美貌は輝かしいが、母お常と下女お菊に因果を含められ、婿をとるのを納得させられる場面、あまり芝居をしないほうがよい。耐えてこそ美しさが引き立つ。
白子屋後家お常の芝喜松、下女お菊の芝のぶ。確かな芝居をするふたりだが、いかんせん化粧が白すぎて、登場したときにぎょっとしたのを書いておく。