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2015年10月3日土曜日

【劇評28】二世松緑追善の大舞台

 
歌舞伎劇評 平成二十七年十月 歌舞伎座。

二世松緑の二十七回忌追善。以前にもどこかに書いたことがあるかもしれないが、十五年ほど前、『演劇界』の編集者に突然「今まで見た中でもっともすぐれた役者はだれですか」と問われ、言下に「松緑」と応えた。時間の余裕があれば、他の答えもあったろうと思うが、とっさの場合はときに真実を指し示す。そんなことを思いながら、ゆかりの演目を観た。
昼の部は『音羽嶽だんまり』の一幕。権十郎を上置きに、松也、萬太郎、児太郎、右近、梅枝らが出演。若手花形の個性を観る楽しみがある。第二場の「だんまり」は、歌舞伎役者としての身体の味が問われる。シンプルな所作が、もっともむずかしい一例だ。全体を通していうと、梅枝がこの世代では頭ひとつ抜けている。けれど、幕切れの引っ込みで、松也の夜叉五郎が花道の七三に立ったときの大きさには驚いた。技術うんぬんよりも
、役者っぷりがよくなったのだろう。自信はなにより役者を成長させる。
松緑の五郎時致による『矢の根』。稚気と勇壮さのバランスがよく、祝祭劇の本質に迫ろうとしている。十郎は藤十郞。短い登場だが、追善に花を添えた。
東京でははじめて観る仁左衛門の『一條大蔵譚』。松島屋のやり方というよりも、仁左衛門の好みで創り上げた舞台だが、何度も手がけているだけに、お京の孝太郎とともに安定感がある。時蔵の常盤御前の哀しみ、家橘の鳴瀬の懸命、いずれも胸を打つ。鬼次郎の菊之助は、おおよそこの人の仁にない役だが、意外に健闘。男臭い武芸者ではなく、妻の心情もおもんばかる二枚目として造形しなおした。その是非はあると思うが、ときには役を引き付けるやり方もあってよい。
菊五郎の極め付け長兵衛が楽しめる『人情噺文七元結』。もはや東京では風前の灯となった江戸弁が、菊五郎に息づいている。時蔵のお兼もすでに定評があるところだが、役を作っていく作為が消えて、長屋のおかみさんの苛立ちと裏のなさがよく出ている。出色なのは、梅枝。お店のお金五十両を無くしてしまった大川端で身を投げようとしている文七の必死な思い。リアリズムに過ぎるというのは、性格ではない。役の心情を掘り下げた末に出てきた激情なので説得力がある。おひさの右近もずいぶん成長した。子供の哀れさではなく、少女の健気さが出るようになり、役が大きくなった。篤実な左團次の清兵衛。ざっけない玉三郎のお駒。
夜の部は『壇浦兜軍記』。俗に言う阿古屋の琴責めで、琴、三味線、胡弓の三曲で、心の内を表現する難役である。歌右衛門以降、この役を引き継いできた玉三郎が藝の頂点を示す舞台。出から遊君のあでやかさ、美しさ、その底流にある哀しさが劇場いっぱいにしみわたる。乱れなく三曲を弾き終えるのは至難の業だが、もはや玉三郎に乱れなどあるわけもなく、ただ遠い日々の記憶と未来への予感が感じ取れる。敵役の岩永を亀三郎が滑稽に演じる。近年の充実振りは目を見張るばかりで、舞台を楽しんでいる。白塗りの捌き役重忠は菊之助。身体的に動けずしんどい役だが、微動だにせず、芝居のたしなみのよさが伝わってきた。
夜の部の切りは、今月の眼目となる『髪結新三』。松緑初役だが、上総無宿の入れ墨者、悪党の性格が強く出た。十七代目勘三郎のやり方を感じたのは、柄や仁の問題だろうか。家主の左團次は手慣れたもの。團蔵の弥太五郎源七は、『文七元結』の角海老手代喜助とともに、ていねいな芝居で盛り上げる。下手な器用さよりも、誠実な芝居の組み立てがいい。秀調の車力善八は、もはやこの人のもの。菊五郎劇団のベテラン達に支えられ、松緑は恵まれている。亀寿の下剃勝奴にしたたかさ。梅枝のお熊は序幕の見世先で本物の煩悶を見せて役を大きくした。いささか貫禄がありすぎるが肴売り新吉を菊五郎が勤める。これぞ「ごちそう」で、急に初鰹がうまそうに思えてきた。二十五日まで。