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2016年1月16日土曜日

【劇評36】松也と松助。

歌舞伎劇評 平成二八年一月 浅草公会堂

正月の『新春浅草歌舞伎』もメンバーを一新して二年目。今年も松也を中心に、巳之助、米吉、国生、隼人、新悟に梅丸、鶴松が加わる。また、上置きに錦之助がいて浅草としてはまずまずの一座といえるだろう。
話題はやはり、松也が『与話情浮名横櫛』の与三郎と『義経千本桜』の「四の切」で忠信実は源九郎狐を演じるところにある。昨年、南座の「弁天小僧」といい、音羽屋の芯が勤める役に着々と立ち向かう。二代目松助は、のちの三代目梅幸、三代目菊五郎だが、近年は脇役の家というイメージが強い。松也の父、六代目松助は、菊五郎劇団にとってかけがえのない名脇役だが、芯を取る役者ではなかった。その長男の松也が、こうした大役を次々と勤める姿は、父が存命だったらどれほどの感慨を持たれたろうと思う。こうした例は少なくとも私が歌舞伎を観始めてからは記憶にない。脇役が続いた三津五郎家の十代目が、芯をとる役者になったのとは、また意味が違う。三津五郎家は守田勘弥家と近く座元の家だからだ。松也の例は身分が固定化した現在の歌舞伎界では稀有のことだと思う。
さて、舞台の実質だが、まだまだこれからというのが正直なところだ。『与話情浮名横櫛』の与三郎は、今は悪党であるが、生来の品のよさが「源氏店」だけ出る場合も必要だ。松也には稀有な色気はそなわっているが、そこはかとない育ちの良さを漂わせるには至っていない。むしろ、出色だったのは米吉のお富で、日陰の身であることと、ある種の明るさがひとりの身にそなわって破綻がない。仇な色気はこれからさらに成熟していくだろう。将来が期待されるお富である。
『義経千本桜』の「四の切」は、まず、身体を鍛え抜くところから始めなければならない。踊り地がどうのこうのというつもりはない。ひたすらフィジカルな身体のキレがなければ、宙乗りのない音羽屋型といっても役を成立させるのはむずかしい。輝かしい身体能力があって、はじめて親を亡くした狐の哀れさ、その境遇が義経と重なる劇構造へと結びついていくのだ。狐言葉にも難があるが、まだそのレベルには達していないというのが、率直な感想である。
ここでも新悟の静御前が赤姫の定型を神妙に勤めていた。隼人の義経。
松也がこうした立場を手にしたことは喜ばしい。この数年で結果をだすのは困難であるが、長い目で見守り、藝が成熟していくのを期待したいと思う。
もうひとり、出色の出来と呼んでいいのは『毛抜』の巳之助。もとより、まだ成長途中ではあるが、團十郎家の粂寺弾正とはまた違ったおおらかさ、のどかな味がある。更に上演を重ねて開花するのを待ちたい。新悟の巻絹、米吉の秀太郎。二十六日まで。