長谷部浩ホームページ

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2016年4月29日金曜日

【劇評45】舞台には登場しない野鴨

現代演劇劇評 野鴨 文学座アトリエ

怒濤の新学期が落ち着き、ようやくゴールデンウィークに入った。予定を決めなければとホワイトボードに書き出したら、2日は休日ではなかった。暦通りなどどいったら、きっと学生は哀しそうな顔をするだろうなと思ったので、休講にしました。
慌ただしいなか、『たとえば野に咲く花のように』(新国立劇場)、『アルカディア』(シアターコクーン)、『野鴨』(文学座アトリエ)『二人だけの芝居』(東京芸術劇場)などを観たのだが、それぞれにおもしろく、やはり演劇の根本には戯曲があることを再確認した。その上で身体の芸術だから、俳優の魅力、技術があるのだろう。
この中では、もっとも地味な上演ではあるけれど、『野鴨』の坂口芳貞と小林勝也が、人間の滋味を感じさせる芝居で時間と空間を引き締めていた。人間と書いたけれど、このクラスの俳優になると、俳優として生きてきた年輪そのものが舞台上にあるように思う。
戯曲を読み、稽古場に立ち、本番を迎え、千龝楽がくる。その連続の中で、愉しみ、苦しみ、喜び、悲しんできた人生そのものを、味あわせてもらっている。そんな気がした。
もっとも、こうした演技を成立させるのは、ヘンリック・イプセンの言葉なのであった。家族というシステムが、人々を狂気に陥れていく。原千代海の訳、稲葉賀恵の演出とあいまって、実に深みのある人間が狭い牢獄のような家にひしめいている様子が伝わってきた。
この芝居には直接、野鴨が登場することはない。けれど屋根裏部屋にひとりいる野鴨が、人間存在の写し絵のようにも思えてきた。野性から切り離され、人間達の玩具として、ようやく生き延びている野鴨。舞台に登場しない動物がまざまざと呼びさまされたところに、稲葉演出のよさがあるのだと思う。文学座のイプセン上演は半世紀ぶりだというが、腕こきの名優が健在のうちに再度の上演を待ちたいと思い、暗い休日の信濃町を歩いた。

2016年4月15日金曜日

【劇評44】仁左衛門渾身の「杉坂墓所」「毛谷村」

 歌舞伎劇評 平成二十八年四月 歌舞伎座昼の部

四月歌舞伎座夜の部、仁左衛門渾身の『彦根山権現誓助𠝏』。通常は「毛谷村」からだが、今回は先立つ「杉坂墓所」が出たので、六助が弥三松を引き取る経緯、そして六助が微塵弾正の計略にかかって試合の勝ちをゆずる理由がよくわかる。歌六の弾正があえて身体を硬く使って、偽善で固めた性格を指し示す。
とはいえ、芝居の眼目は「毛谷村」。孝太郎のお園は、女武道ながら内心のかわいらしさがよくでた。婚約者とわかってからの恥じらい、はしゃぎっぷりはこの役者ならではのもの。彌十郎は斧右衛門をつきあうが、百姓ではない。土ではなく、木であり、母殺しの仇を討ってほしいとの訴えに誠実味がある。真実を知ってからの仁左衛門が、抑えた芝居で真実の怒りをみなぎらせた。「毛谷村」は実はむずかしい芝居だと思うが、近年のなかではもっとも充実している。現在の仁左衛門に似合った出し物となった。
続いて高野山開創一二○○年記念と題した新作歌舞伎『幻想神空海』(夢枕獏原作、戸部和久脚本、斎藤雅文演出)。唐の都長安に遣唐使の留学生としている時代、空海(染五郎)が遭遇した怪事件を描く。若き日の空海、相棒となる橘逸勢(松也)。青春を謳歌し、ひとかどの人物となっていく成長譚だが、いかんせん、物語が筋を追うばかりで、歌舞伎的な演出にも乏しく冗長な六章となってしまっている。先月襲名した雀右衛門の楊貴妃、歌六の丹翁、幸四郎の皇帝はさすがに立派だが、ドラマを大きく動かすには至っていない。二十六日まで。

【劇評43】悪が吐く毒 幸四郎の『不知火検校』

歌舞伎劇評 平成二十八年四月 歌舞伎座昼の部

春爛漫の四月大歌舞伎は幸四郎、仁左衛門に、先月襲名したばかりの雀右衛門も加わった一座。新作歌舞伎(かきもの)もあって、斬新な番組立てとなった。
昼の部はまず『松寿操り三番叟』から。すっかり操りといえば染五郎の当り狂言となった。今回は後見が松也で、さらっと、そして華やかに幕をあける。五穀豊穣を願う踊りで春のさかりの浮き立つ気分にふさわしい。
続いて宇野信夫作・演出、今井豊茂脚本の『不知火検校』。十七代目勘三郎が初演したこの芝居、平成二十五年九月には、新たに改訂した台本で幸四郎が富の市、後に二代目検校を勤めている。幸四郎は第一幕の富の市では、地を這うような野心の鋭さを見せ、第二幕検校に成り上がってからは、悪のなかに俗っぽさを漂わせることを厭わない。ありていにいえば、好色ぶりも強調して、欲望のままに振る舞う人間の本質をあきらかにする。悪の手助けをするのは、手引の幸吉実は生首の次郎(染五郎)、丹治(彌十郎)、玉太郎(松也)だが、三人三様、悪といっても濃淡があり、個性があるとよくわかる。小説でもピカレスクロマン(悪漢小説)が好まれるのは、人間の自由とは何かを問いかけてくるからだろう。この芝居もそうなっている。孝太郎がいささか品のない愛妾おはんを好演。その間夫指物師辰五郎(錦之助)も頼りないところが好ましい。
第二幕第六場、町の人々から礫をあびた検校。幸四郎は悪が吐く毒を濃厚に漂わせる。「おらぁ地獄でまってるぜ」のタンカも効いた。
昼の部の切りは、ご存じ『身替座禅』。仁左衛門の山蔭右京、又五郎の太郎冠者、米吉の侍女千枝、児太郎の侍女小枝、左團次の奥方玉の井と鉄壁の布陣。仁左衛門は単にここにはいない花子への浮気心ばかりではなく、怖い奥方に対する甘えの気持を滲ませるのが手柄。又五郎は「はーっ」と出から気の力をこめてこの狂言をひとときも気を抜かずに支えている。左團次と又五郎の芝居が弾み、この狂言では初顔合わせだが、芝居への愛情が伝わってくる出来だ。後半、太郎冠者から奥方に替わっていると知らずに、花子へのおのろけをひとりがたりする件り、仁左衛門は春風駘蕩たる気分が先行して、情景の描写が後退する。これに対しては賛否があるだろうと思う。二十六日まで。

2016年4月10日日曜日

【お知らせ】明治座の劇評、女殺油地獄

今月、明治座の劇評は、来月号の『演劇界』に掲載の予定なので、こちらのブログにはアップしません。

ですが注目の女殺油地獄についてひとこと。与五郎は最初に聞いたときから、菊之助の仁になく、
音羽屋菊五郎家の江戸二枚目の系統にはないと思いました。
かなりむずかしいだろうと予想していましたが、
殺し場へと役を一貫させるために、序幕から徹底した歪みを強調した芝居で、
この役を成立させていました。

上方の雰囲気が足りないとの指摘は、もとよりあると思いますが、
これは菊之助ひとりでなんとかなる問題ではありません。
橘三郎、上村吉弥の夫婦の芝居で、そのあたりはどうぞ堪能して下さい。

歌舞伎座の劇評は、近日中に。また、このところ二本現代演劇を観ましたので、
追々、機会があればこのブログで公開していきます。
どうぞご愛読くださいますように。