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2016年5月12日木曜日

【劇評47】初目見得と海老蔵、菊之助の『男女道成寺』

 歌舞伎劇評 平成二十八年五月 歌舞伎座夜の部

新しい命は、人間を無条件に幸せにする。菊五郎、吉右衛門の孫、菊之助の長男寺嶋和史の初目見得は、たくさんの祝福の花に彩られて、歌舞伎の未来へと希望をつなぐ一幕となった。『勢獅子音羽花籠』は、幹部が勢揃い。威儀を正しての口上にはない暖かいひとときであった。
続く『三人吉三』は、菊之助のお嬢、海老蔵のお坊、松緑の和尚と三人の吉三が出会う「大川端の場」。この一場だけだす場合は、筋や型うんぬんよりも、役者っぷりを競うことになる。また、それぞれの役にいかにみずからの個性を打ち出すかも見どころとなる。この顔合わせでは七年ぶりになるが、やはり大きくこの世代が歌舞伎のフロントに出てきた印象が強い。なかでもきかん気が強いが懐も深くなった海老蔵のお坊、単に美しいばかりではなく、豊潤な色気に悪の気配を隠した菊之助のお嬢の進境が著しい。和尚は座頭の役だけに、ふたりの役者を納めるには、さらに年輪が必要になるのだろう。(尾上)右近のおとせ。
松緑の出し物は『時今他桔梗旗揚』。「馬盥」と「連歌の場」だが、光秀を松緑で観るのは平成十八年の新橋演舞場以来だから十一年振りとなる。当時は大きく見せようと身体が伸び上がる癖が目立ったが、さすがに肚に落ちてきた。團蔵の春永は光秀をいたぶる役だが、光秀を襲名で経験しているだけに、ただ押すだけではなく、攻めどころ、引くところ緩急があって長い「馬盥」を持たせる。「連歌の場」となってからは、徹底した辛抱の果てに、光秀は本能寺で春永を討つと決意する。それまでのこころの内を活写していく。辛抱立役に近い役どころだが、こうした芝居は脇に人を得ないとむずかしい。その点、時蔵の皐月の慎重、梅枝の桔梗のひたむきさ、受けの芝居もすぐれてこの場を盛り上げる。ただ、幕切れの光秀の高笑いはいかがなものか。『時平の七笑』ではない。せっかく耐えに耐え、皐月はじめ一族へ後を託し、家臣たちを戦場に駆り立てる武将の大きさがこの笑いによって吹き飛んでしまっている。
夜の部の切りは海老蔵、菊之助による『男女道成寺』である。菊之助は、玉三郎と『二人道成寺』の上演を重ねて、花形では道成寺物のトップランナーになったといっていい。「男女」とはいえ、この菊之助と同じ舞台でともに踊るのは、海老蔵にとって相当の勇気が必要だと思った。
ところが幕が開いてみると、冒頭の金冠からその不安はまったくといっていいほどなく、この踊りは単に舞踊技術ではなく、役者の華を見せる手もあるのだと納得させられる。それほどの意気込みで海老蔵は、左近となってからも誠実にこの大曲に向かい合っている。菊之助は当然のことながら、技術的には成熟し、そのためその場、その場に余裕が感じられる。お嬢吉三でも書いたが、自らを頼む心があるから、熟れた女性の色気が全体に漂う。従って玉三郎との『二人道成寺』ではなかなか経験できなかった「恋の手習い」のくだりに廓の女の艶が出るようになった。ただ、『男女道成寺』のために「鞠歌」のくだりを海老蔵に譲ることもあって、おぼこい町娘を強調するところが乏しい。可憐だけではだめ、色気いっぺんとうでもだめ。なかなかむずかしい。解決策としては、一人で踊る「花笠」では色気を抑えて、おぼこく踊ると全体に変化がつくだろうと思う。いずれにしても高いレベルでの註文で、ふたりの華やかな舞台にけちをつけるつもりはみじんもない。二十六日まで。