長谷部浩ホームページ

長谷部浩ホームページ

2016年6月23日木曜日

【劇評53】核をめぐる問題。段田安則、宮沢りえ、浅野和之の告発劇

 現代演劇劇評 平成二十八年六月 シアタートラム

二○○一年に初演された『コペンハーゲン』(マイケル・フレイン作、平川大作翻訳  鵜山仁演出)は、理論物理学の巨人、ハイゼンベルグとマルグレーテ、ボーアの三人による台詞劇で衝撃を与えた。物理学者と倫理、そして人間性の問題が、これほど上質に戯曲化され、舞台にのった例を知らない。客席には、大人の男性観客が目立った。日本の劇場では異例なことだった。新国立劇場では、〇七年に再演され、このときも深い感銘を受けた。
 今回のSISカンパニーによる上演は、翻訳が小田島恒志、上演台本・演出が小川絵梨子という布陣で、原作の本質を損なうことなく、戯曲を刈り込んでいる。一般の観客には馴染みのない物理学の用語を避けたというよりは、人間と人間の争い、こころの襞を明確化するためのテキストレジといっていいだろう。
 なによりすぐれているのは、段田安則のハイゼンベルグ、宮沢りえのマルグレーテ、浅野和之のボーアと、先の争いや襞を表現するには最強の布陣で臨んだところにある。段田のハイゼンベルグは、野心の良心のはざまで揺れる天才のありようをよくあらわしている。宮沢のマルグレーテは、夫ボーアを気遣いつつも、男たちの欲望と傷心をまっすぐに見詰めていく強さがある。そして浅野のボーアは、母がユダヤ人という宿命に翻弄された老学者の内省が胸を打つ。息子をヨットの事故で失った過去がいかに彼の人生を揺さぶっていったか。核をめぐる問題が深刻化している今、それぞれの真摯にして切実な逡巡が、私たちに決定的に欠けていることを告発している。
 演出の小川は、この三者の関係が刻々と変化していく様子を、それぞれの距離と舞台面のシンメトリーな対称によって視覚的に表現してすぐれている。さらにいえば、美的な表現に終わらず、人生の本質は闘争にあり、人間の意志によってすべては変化していくのだと語っているように思われた。見逃せない舞台である。七月三日まで。シアタートラム。

2016年6月20日月曜日

【閑話休題39】能『安宅』について、生まれて初めて書いてみた。

歯医者の定期検診に行ってから、定例のゼミが休みなので、お能についての文章に取りかかる。
能評のようなものは、生まれたときから自邸に能舞台がある人が書くものと言い聞かされてきたので、自分が書く機会があるなどとは思ってもいなかった。

能楽書林の編集者に前々から頼まれたのが気になっていたので、
急に書いてみたくなった。

六月の九日、十日に連夜、国立能楽堂で行われた『安宅』についてである。シテの弁慶は、浅見真州と友枝昭世。
いずれも当代を代表する能役者である。巧く書こうとはもちろん思いもしないが、これがどのような意味を持つのかが自分ではよくわからない。

編集者と相談して、稿を改め、掲載に値するようであれば、載せてもらうくらいの心づもりです。

2016年6月18日土曜日

【劇評52】歌舞伎の役柄を再創造するコクーン歌舞伎『四谷怪談』

 歌舞伎劇評 平成二十八年六月 シアターコクーン

コクーン歌舞伎も十五弾目と聞くと、気が遠くなる。勘三郎が蒔いた種子が大きく育ち、より大胆な第二期に突入したというのが、私の考えである。
今回の『四谷怪談』(四世鶴屋南北作、串田和美演出・美術)は、平成十八年に「北番」「南番」として別のテキストレジを行った上演のうち、「深川三角屋敷の場」を重く見た北番をもとに再構成されている。扇雀のお岩・与茂七、獅童の伊右衛門。勘九郎の直助権兵衛、七之助のお袖の配役で「三角屋敷」が出るとなると、お岩、お袖姉妹の母からゆずられた形見の櫛が流転していく物語になるのかと思った。それはそれで間違いではないが、伊右衛門とお岩、直助とお袖の関係とそれぞれの造形をもう一度見直して、歌舞伎の役柄そのものを再創造する試みのように思えた。
具体的には獅童の伊右衛門は色悪ではなく、主体性なく流されていく一人の男であった。お岩は父左門の生き方を尊敬そして反発しつつ、やはり男に頼らなければ敵討ちもそして生活も成り立たない哀れな女ではなく、この世の地獄に向かってひたすら落ちていく女に見えた。また、直助は小悪党というよりも女にだらしない好漢であり、お袖もまた夫与茂七と好漢直助のあいだで揺れる女であった。南北の原作そのものというよりも、それぞれの役を現代人の目で読み解き、成立させるにはいったいどうしたらよいのか。その視点に貫かれているからこそ『東海道四谷怪談』ではなく、今回は『四谷怪談』なのだろうと思う。
南北というと江戸の文化文政、爛熟した世相を映し、当時の下層社会を生世話として描いた作家とされる。もちろんその通りではあるが、こうした枠組みによって、南北の登場人物が型にはまってきてしまっていたのも事実であろう。思えば、21世紀になってからの東京もまた、文化文政時代に負けず劣らず、人がまっとうに生きることが難しい社会となった。民草の生活などなにも考えぬ総理が、独裁をふるって人々を苦しませている。そこには自殺や貧困が圧政のもとに生み出されている。串田の新しい『四谷怪談』は、現在を告発する劇として、古典を再生させたのであった。
衣装をふくめ江戸と現在が混在する。つまりは、ちょんまげとスーツが同じ舞台に乗るのである。ここまで来たならば、原作の時間軸にこだわることなく、より大胆なレジが行われ、さらに混乱が起きても作品性をそこなうどころか、よりインパクトを獲得できたのではないだろうか。二十九日まで。

2016年6月17日金曜日

【劇評51】雀右衛門の進境を博多座で観る。

歌舞伎劇評 平成二十八年六月 博多座

博多座で新・雀右衛門の襲名披露を観た。昼の部は、仁左衛門の熊谷、雀右衛門の相模、歌六の弥陀六に、菊之助の藤の方と襲名らしく顔の揃った『熊谷陣屋』。雀右衛門は出から威厳が備わって、急転する人生を受け止めつつ耐える女として相模を着実に作り上げる。仁左衛門は「ご内見はかないませぬ」と藤の方を止めるときの厳しさ、法衣になってからの内省と申し分ない。残された相模はどうなるのかと案じられたのは、襲名の雀右衛門を盛り立てようとする一座のよさだろうか。現在、考えられるかぎり一級品の『熊谷陣屋』といってよいだろうと思う。
夜の部は、『本朝廿四考』が出た。この芝居まずは菊五郎の勝頼が本舞台の芯にいるが、馥郁たる色気が漂う。円熟がこの芸容となったのだろう。上手に雀右衛門の八重垣姫、下手に時蔵の濡衣。愛太夫渾身の竹本に情がこもり、勝頼を慕っていた筈が、美貌の青年に惹きつけられ、やがて本物の勝頼とわかる筋立てを炎が燃え上がるように見せたのは、雀右衛門の手柄だろうと思う。切なさに心を裂かれる八重垣姫は、もとより難役だが、雀右衛門には先代とはまた色が違う。あえていえば現代的な切れ味、シャープさが備わっていてこの先の藝境が楽しみになった。
他に、菊五郎が自在な境地にいたって見せる『身替座禅』、仁左衛門と左團次がお互いの気持を探り合う『引窓』がすぐれる。孝太郎のお早の可憐。竹三郎のお幸の女親の哀しみ。これもまた一級の舞台である。
また、菊之助が『十種香』で白須賀六郎として颯爽と現れたかと思うと、次の幕では『女伊達』で江戸の粋を体現する。鮮やかな替わり方で、立役としても充実期にある菊之助の現在を楽しめる。これほどの大一座でない限り芯を取ることが多くなった菊之助が、脇に回る面白さがあった。二十六日まで。

2016年6月10日金曜日

【劇評50】猿之助全力の狐忠信

歌舞伎劇評 平成二十八年六月 歌舞伎座

六月歌舞伎座は、三部制で『義経千本桜』の知盛、権太、忠信を中心の演目をそれぞれ並べる。ここで言うまでもなく「三大名作」とまでいわれる義太夫狂言の大作だけに、相応の座組で取り組まなければ成功はおぼつかない。
まずは、「渡海屋」「大物浦」。染五郎初役の知盛だが、「渡海屋」の銀平に大きさが必要となる。「大物浦」の悲壮感は申し分ないが、銀平に武将であり貴公子である風をくっきりと見せなければ、この二幕がつながらない。つきすぎてはいけないし、かといって二つの役になってしまってもいけない。なるほどこの知盛の件りが難物であるとよくわかった。同じ事は、「渡海屋」のお柳と「大物浦」の典侍の局にもいえる。猿之助は世話でいくお柳に才気を見せるが、典侍の局となってから禁裏でかつて権勢をふるった局の複雑な性根を描き損ねている。松也の義経だが、先月の若衆といい、歌舞伎の根本にくらいつく覚悟が見えてきた。右近の相模五郎に厚み。銀平娘お安実は安徳帝で右近の長男武田タケルが初お目見え。芝居になっており、実質的な初舞台といってもいい。
「時鳥花有里」がつくが、「渡海屋」「大物浦」の後に続く必然性が感じられない所作事。かわりに「鳥居前」をだした方が観客に親切に思える。
第二部は、幸四郎のいがみの権太。描線が太く、大和の片田舎の小悪党というよりは、肚に一物ある在野の人物として造形されている。「木の実」「小金吾討死」と続くが、ここでも松也の小金吾が幸四郎の胸を借りて奮闘している。権太女房小せんは、秀太郎。さすがにこのあたりだけ上方の風が吹いてくる。市蔵の猪熊大之進は、端敵のおもしろさ、愉しさを伝えてくれる。続く「すし屋」は、染五郎の維盛、猿之助のお里は、仁にあった本役で舞台が落ち着き、すらすらと運ぶ。お里のいじらしさ。クドキに精彩がある。錦吾の弥左衛門は逼迫する事態に迷う爺の哀しさが感じられ、人間としての厚みがある。
第三部は狐忠信。『道行初音旅』は、清元、竹本地のよく知られた舞踊。知られているだけに、要所要所は楷書で締めなければならないが、〽恋と忠義は」の出、「女雛男雛」のキマリ、忠信の軍物語ときっちり見どころを押さえている。配役は前幕とは逆に、猿之助が立役の忠信、染五郎が女方の静御前と意表を突くが、これが成功のもとだろう。半道敵の逸見藤太は、猿弥。この役は見事に手に入っていて、自在に客席を湧かせる。続いて『川連法眼館』を沢潟屋の派手な型で見せる。猿之助が伯父から継承し、自らのものとしてきた佐藤忠信実は源九郎狐。本物の忠信をあえて生硬につくって、狐と替わってからは愛嬌をふりまく。細やかな手順を微分するかのような執着が感じられて、猿之助ならではの『四の切』となった。笑也の静御前は可憐にして上品。静御前が源九郎狐を呼び戻すために鼓の皮を湿らせる件りなど、急がず、悠然と演じている。また、腰元たちが庭を改める件りも端折ったりしない。このあたりの一見、なんでもない場面を丁寧に作っているからこそ、この芝居の怪異が生きて、さらには源九郎狐の変身も自然に受け止めることができる。竹本の葵太夫がさすがの出来で、猿之助、笑也もよく糸に乗っている。鼓の音に聴き入る件りも真剣そのもの。狐言葉も不安がない。門之助の義経も安定感がある。義経から鼓を与えられてから、喜びが真に迫る。ゆえに、続く宙乗りへとつながっていく。桜吹雪をあびて全力の舞台であった。二十六日まで。

2016年6月4日土曜日

【劇評49】言葉と音の意味は攪拌されて。『こぼれる現相』の斬新。

現代演劇劇評 平成二十八年六月 シアター・バビロンの流れのほとりにて

言葉と音、現実と虚妄について考えさせられる舞台を観た。
片岡真優脚本・出演・演出の『こぼれる現相』は、自らの虚妄をいかに持ち続けることができるのか、それを可能にするのは何か、問いかけに満ち満ちている。女(片岡)は出産したけれども、子供はどこかに消えてしまったと主張している。フリーランスのライター(高木優希)は、神話上のプーカを世界の湖で探していたが、ついに東北の十和田湖の海底で発見し、写真撮影、映像撮影に成功したと編集部に売り込んでいる。女が子供の消失は確かにあったのだとライターに訴えるうちに、ふたりの持つ虚妄が重なり合い、グロテスクな「現相」が暗闇に立ち現れる。
「現相」とは片岡の造語で、公演後に手渡されたパンフレットでは、現実のかわりに「影絵のようにハリボテで影を作って、影の持ち主の存在を信じてもらおうとする」その現れであるとする。ここには、まぎれもなく現実のリアリティを喪失してしまった私たちの現在がある。そして、その現在から目をそらさずに、演劇でもなく、音響インスタレーションでもないまっすぐな表現の場を作り出そうとする意志が強くあった。
会場には天井から白いイァフォンが垂れ下がっている。ふたりのキャストがイァフォンをつけているために、観客たちは、何の指示もないにも関わらず、ごく自然にイァフォンを装着していた。
携帯からスマホへの移行によって、いつなんどきでもイァフォンを耳にしている光景はありふれたものとなった。
舞台上のアクターとともに、このイァフォンを耳にした観客もまた、同一の場でアクトする結果となった。音楽・演出の増田義基は、もとより演劇の音響の役割から離れている。言葉の意味を補強するよりは、舞台上の人間の耳にいつも届いているはずのノイズをあたりに拡散しているように思えた。
考えてみれば、劇場のように外部のノイズを遮断した状態の場は、きわめて稀である。言葉は生活の多くの場面で音楽を含むノイズとともに耳に届き、言葉と音の意味は攪拌された状態で脳に達するのだった。その意味でも、本来の性格から実体を持たず、場所を占有しない音の存在が、この劇に深くまとわりついていた。
もとより、舞台は荒削りである。完璧という表現からは遠い。けれどここには、「現代演劇」や「現代音楽」から、軽々と逃れて、自身の表現を探る真摯な姿勢がある。のちに「実はこの舞台から見ていたといわれるようでありたい」。そんな表現を続けてもらいたいと願いながら、王子神谷の劇場を後にした。六月五日まで。

https://www.quartet-online.net/ticket/koborerugenso