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2016年6月10日金曜日

【劇評50】猿之助全力の狐忠信

歌舞伎劇評 平成二十八年六月 歌舞伎座

六月歌舞伎座は、三部制で『義経千本桜』の知盛、権太、忠信を中心の演目をそれぞれ並べる。ここで言うまでもなく「三大名作」とまでいわれる義太夫狂言の大作だけに、相応の座組で取り組まなければ成功はおぼつかない。
まずは、「渡海屋」「大物浦」。染五郎初役の知盛だが、「渡海屋」の銀平に大きさが必要となる。「大物浦」の悲壮感は申し分ないが、銀平に武将であり貴公子である風をくっきりと見せなければ、この二幕がつながらない。つきすぎてはいけないし、かといって二つの役になってしまってもいけない。なるほどこの知盛の件りが難物であるとよくわかった。同じ事は、「渡海屋」のお柳と「大物浦」の典侍の局にもいえる。猿之助は世話でいくお柳に才気を見せるが、典侍の局となってから禁裏でかつて権勢をふるった局の複雑な性根を描き損ねている。松也の義経だが、先月の若衆といい、歌舞伎の根本にくらいつく覚悟が見えてきた。右近の相模五郎に厚み。銀平娘お安実は安徳帝で右近の長男武田タケルが初お目見え。芝居になっており、実質的な初舞台といってもいい。
「時鳥花有里」がつくが、「渡海屋」「大物浦」の後に続く必然性が感じられない所作事。かわりに「鳥居前」をだした方が観客に親切に思える。
第二部は、幸四郎のいがみの権太。描線が太く、大和の片田舎の小悪党というよりは、肚に一物ある在野の人物として造形されている。「木の実」「小金吾討死」と続くが、ここでも松也の小金吾が幸四郎の胸を借りて奮闘している。権太女房小せんは、秀太郎。さすがにこのあたりだけ上方の風が吹いてくる。市蔵の猪熊大之進は、端敵のおもしろさ、愉しさを伝えてくれる。続く「すし屋」は、染五郎の維盛、猿之助のお里は、仁にあった本役で舞台が落ち着き、すらすらと運ぶ。お里のいじらしさ。クドキに精彩がある。錦吾の弥左衛門は逼迫する事態に迷う爺の哀しさが感じられ、人間としての厚みがある。
第三部は狐忠信。『道行初音旅』は、清元、竹本地のよく知られた舞踊。知られているだけに、要所要所は楷書で締めなければならないが、〽恋と忠義は」の出、「女雛男雛」のキマリ、忠信の軍物語ときっちり見どころを押さえている。配役は前幕とは逆に、猿之助が立役の忠信、染五郎が女方の静御前と意表を突くが、これが成功のもとだろう。半道敵の逸見藤太は、猿弥。この役は見事に手に入っていて、自在に客席を湧かせる。続いて『川連法眼館』を沢潟屋の派手な型で見せる。猿之助が伯父から継承し、自らのものとしてきた佐藤忠信実は源九郎狐。本物の忠信をあえて生硬につくって、狐と替わってからは愛嬌をふりまく。細やかな手順を微分するかのような執着が感じられて、猿之助ならではの『四の切』となった。笑也の静御前は可憐にして上品。静御前が源九郎狐を呼び戻すために鼓の皮を湿らせる件りなど、急がず、悠然と演じている。また、腰元たちが庭を改める件りも端折ったりしない。このあたりの一見、なんでもない場面を丁寧に作っているからこそ、この芝居の怪異が生きて、さらには源九郎狐の変身も自然に受け止めることができる。竹本の葵太夫がさすがの出来で、猿之助、笑也もよく糸に乗っている。鼓の音に聴き入る件りも真剣そのもの。狐言葉も不安がない。門之助の義経も安定感がある。義経から鼓を与えられてから、喜びが真に迫る。ゆえに、続く宙乗りへとつながっていく。桜吹雪をあびて全力の舞台であった。二十六日まで。