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2016年7月24日日曜日

【劇評56】格差と貧困 高橋一生、吉高由里子の疾走感

 現代演劇劇評 平成二十八年七月 シアタートラム
シアター・トラムで疾走感あふれる舞台を観た。フィリップ・リドリーの『レディエント・バーミン』(白井晃演出 小宮山智津子翻訳)は、世界を席巻していた消費主義社会が不調になり、その速度を失いつつある時代を描いている。
若い二人の夫婦、オリー(高橋一生)とジル(吉高由里子)は、冒頭自分たちの罪について告白しはじめる。麻薬と貧困にあふれるスラムに育ち、その境遇から抜け出る可能性がないふたりは、ミス・ディー(キムラ緑子)と名乗る人物から一通の手紙を受け取った。将来性のある地域の五棟からなる廃屋のひとつをリフォームしてみないかというのである。「政府」に連絡するとはっきりではないが承認を受けている。現地にいくとミス・ディーは、すでに契約書を用意していた……。
劇の前半から早くから明らかになるので、ここで明かしてもいいだろう。
もし、観劇の予定がある方は、このあたりで読むのを止めてもよい。


各部屋は近隣のホームレスを殺すことによって魔法のように成し遂げられる。まだ、ジルのお腹にいる子供ベンジャミンのため、その美名を質にふたりは次々と「犯罪」を重ね、完璧に美しい部屋が次々と完成していく。
もちろんこの劇はファンタジーの形式を取る。このような現実があるわけもない。けれど、リドリーと白井は、そこに周到な寓意を込める。ふたりの成功が新たな移住者を呼び込み、五棟はすべて埋まっていく。近隣には大きなショッピングセンター(名前はネバーランド)が生まれ、雇用を生み出していく。はじめに移住してきたのは、宣伝などに出演する夫婦医師だった。
次第にその棟の人気が高まるに連れ、元裁判官、プロデューサーと社会的な地位をすでに得た人らが引っ越してきて「仲間」に加わっていくのだ。
このすべての人々を、高橋と吉高のふたりが、狂騒的に演じていくのが見物である。我を忘れ、自分を取り落としたままひたすら消費に走って行く姿は、テレビや雑誌の広告によって突き動かされてきた消費者の似姿でもある。
罪悪感を振り捨てようとしながら、ふたりは「犯罪」イコール「リフォーム」イコール社会的階梯の上昇をなしとげているかに見える。その象徴となるのが、生まれたベンジャミンの一歳の誕生日である。ガーデンパーティの形式をとった晴れがましい場は、一転してふたりがこれまで獲得した家を放棄するきっかけとなる。ふたりが生まれ育った地域では、緑の庭でのガーデンパーティなどありえないことだった。すばらしいインテリア、最新の電化製品に囲まれた家に加えて、「社交」をも手に入れようとしたときに破綻が起きる。これは厳然たる階級社会に閉じ込められた労働者階級の寓話ではない。格差と貧困がさまざまな壁を作りだしてきたこの二十年の日本でもあるのだ。
この舞台を見終えて、もはや経済成長のために国策を決めるのは、到底、無理な話になってしまっていると知る。オリーとジルは、今の家を出る時期に、二人目の子供を授かったと知る。少子化が止まらない日本で、内需に支えられた経済成長をこれからも長期に維持できないのは自明の事柄ではないか。
それでも百貨店や雑誌は、「すばらしいインテリア、最新の電化製品」のイメージを振りまく。それを手に入れたいのであれば、オリーのようにまず、男性が「ホームレス」イコール「異文化の他国民」を善意の神父を気取って狩りにいく。それでも富が足りないとすれば、今度は女性のジルまでが大量殺人に手を貸す。それによってはじめて自国の経済活動が維持され、快適な生活を送ることができるのだ。「戦争に行って罪はないが、自国の経済に貢献しない人間は殺してもかまわない。それによって特需が起き景気が上向きになれば結構」と、考えてはいませんか? と観客を挑発する。
こうした深刻きわまりない戯曲をブラック・コメディの形式に仕立て挙げた、リドリー、白井のしたたかさ。頭の隅に浮かぶ疑問を振り捨てるように子供に集中しようとする高橋、やがて欲望に取り憑かれコントロールがつかなくなる吉高、不気味な冷ややかさを漂わせるキムラとキャストの強い意志が舞台を支えている。
明日はとちらに行くのか。都知事選は間近に迫っている。
現代社会の行方を考える上で必見の舞台となった。