長谷部浩ホームページ

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2017年11月17日金曜日

【劇評89】野田秀樹の『One Green Bottle』生と死を問い詰める時間

 現代演劇批評 平成二十九年十一月 東京芸術劇場シアターイースト

野田秀樹作・演出の『One Green Bottle』を二度観た。十一月四日と十六日、1週間余りを隔てている。一度目は、大竹しのぶ、阿部サダヲ、野田による吹き替えをイヤホンで聞き、二度目は一部の長台詞を除いてはイヤホンをほとんど使わなかった。私の英語力を差し引くとしても、一度目と二度目の印象があまりにも異なったのは、複雑な理由があるように思えてならない。簡単には説明できない。ただ、二度目は海外で現地で制作された英語上演作品を観るように観た。
かつて十八代目中村勘三郎と野田、そして黒木華と太田緑ロランス(ダブルキャスト)で上演された『表に出ろいっ!』が二○一○年に上演されている。『One Green Bottle』は、その単なる英訳版ではない。キャストを勘三郎からキャサリン・ハンターへ、黒木、太田からグリン・プリチャードに変え、台本自体も英訳ではなく、ウィル・シャープによる自由な翻案がほどこされていた。登場人物の設定はともかく、戯曲の展開は大きく変わっている。新作というのはおおげさだが、『表に出ろいっ!』のかなり大幅な書き替えと考えていい。
だが、この二作の物語の骨格は似ているために、勘三郎のイメージをふっきるのに正直言って時間がかかった。また、翻案によるさまざまな改訂を、英語と吹き替えの情報が溢れ出て来るなかで、追いつくのは大変だった。
今回の上演は、前半でさえもスプラスティック・コメディではない。むしろブラック・コメディというべきだろうか。それは登場する三者すべてが、性を変えている配役も影響している。男優は女性を演じ、女優は男性を演じるている。しかも女優のハンターがハゲのかつらをかぶり、男優のプリチャードが現代のとがっている少女のコスチュームを着るなど奇想天外な衣裳(ひびのこづえ)が与えられている。そのため、あらゆる過激な発言や言動が、日常そのままではなく、架空のファンタジーとして現実から切り離された。
『表に出ろいっ!』では、現代日本のさまざまな「神」が家族のなかでひしめき対立している状況が、家族の間のコミュニケーション不全を起こしていた。それは二○一○年、当時のまぎれもない現実であり、リアリズムでもあった。けれど、今回の上演までの年月は私たちを取り囲む家庭の事態を変えた。たった七年のうちに、それぞれの「神」よりも上位にインターネットとそれをつなくデバイス(スマホや携帯やPC)があるとあらわになったのである。
そのため、ボー(ハンター)が信じる伝統藝能とワンダーランド、ブー(野田)が信じるボーイズボーイズに比べて、ピクル(プリチャード)のネットへのカルト信仰が圧倒的に見えてくる。そのためお互いがそれぞれの信仰を非難するよりは、もはや直接の会話が決定的に繋がらなくなった家庭の状況があらわになった。もし、コミュニケーションをとりたいのだとすれば、同じ空間にいてさえも、お互いがそれぞれのデバイスに向かってメッセンジャーやラインを打ち込むことでしか成立しないと鋭く告発していたのだった。
さらにいえば、後半も変わった。
もはや、水がなくなって助けを呼べない危機的な状況がそれぞれを怯えさせているのではない。お産を控えた犬を食べてしまうのか、それともお互いが食い合うことでしかコミュニケーションは成立しないのか。極限的な状況でひとは何を思い、何を押しとどめ、何を求めるかが主題となる。水を求めるパニックものではなく、人間が生と死を問い詰められる時間として『One Green Bottle』は成立していた。
他にも英語による上演でしか味わえない細部のおもしろさがある。シェイクスピアの言葉や業平の和歌(しかも謡いの調子で発声される)が日常の会話のトーンをかるがると覆すところだ。世代間の口調の違いにコミュニケーション不全の本質があるわけではない。むしろ、古典の言葉が時代を突き抜けて語りえる真実とは何かが胸に迫ってくる。そして童謡の底にある残酷さが劇を下支えしている。
ハンターは、愛嬌のある能楽師を演じつつも愛嬌がある。愛嬌ばかりではない。その向こうに空恐ろしいまでの恐怖がある。人間の深淵を見せる演技である。
プリチャードは、仕草、表情に技巧があり、少女を演じて不自然さはない。そればかりか少女特有の潔癖さと得体の知れなさを感じさせる。
野田は、『表に出ろいっ!』以上に、日常をただやり過ごすことで現実から逃避する人間の哀れさ、哀しさを狂騒的に演じている。   
三者三様、いずれも類型にとどまらない挑戦的な演技である。様式にとらわれずに、性を横断するだけの力があった。
また、作調と演奏を担当した田中傳左衞門がすぐれている。今回は八月の『桜の森の満開の下』のように自在に書かれた新作を歌舞伎の領域へととどめるのが目的ではない。たとえば、人形振りの所作が振り付けられた件りで三味線の録音を差配しているのだろう。その録音を蘇らせるように、その場で小鼓などの音を切り結んでいった。小鼓の弱音がとりわけすばらしい。音を伝統演劇の領域から解放していくその挑戦的な姿勢をおもしろく思った。
この作品をより味到できるのは、英語をネイティブとする人々なのだろう。それを考えると残念ではある。けれど、世界の最前線への向かって行くには、こうした試みが必要不可欠なのはよくわかる。
野田が役者として英語で舞台を勤めるとき、『RED DEMON』英国初演とは、まったく異なる柔軟かつ練られた領域へと達していることに驚かずにはいられなかった。故・勘三郎は、徹底した稽古に基づいて、即興であるかのような演技を繰り出す天才だった。野田はまだ、泉下にいる勘三郎と張り合おうとしているかのようだった。十九日まで。十一月二十三日から二十九日までソウル公演。
http://www.geigeki.jp/performance/theater143/
撮影:篠山紀信



2017年11月5日日曜日

【劇評88】制服の下のもろい生身の肉体。ホーヴェ演出の『オセロー』

 現代演劇劇評 平成二十九年十一月 東京芸術劇場プレイハウス

なぜ、海外の演出家を呼ぶ舞台が多いのですかと、演劇関係者が足繁く訪れる小料理屋の大将に聞かれた。しばらく考えて、「どうしてでしょう。よい俳優は外国の演出家の言うことを聞くでしょうから」と応えた。あまりまともな返事とはいえない。
ただ、かつて九十年代にデヴィッド・ルヴォーの演出に親しんだ私からすると、俳優を励まし、勇気づけ、言葉での決闘に送り出していく姿勢は、外国人演出家に共通しているのではないかと考えている。
中劇場の舞台が続いている。なかでも十年に一度の舞台に接したと思ったのは、十一月のはじめに三ステージだけ上演されたイヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出の『オセロー』だった。オランダのトーネルグループ・アムステルダムによるプロダクションだが、一九七○年生まれのモロッコ系オランダ人ハフィッド・ブアッザによる新訳を採用している。
ムーア人のオセローを演じるハンス・ケスティングは、肌を黒く塗ったりはしない。名優ローレンス・オリヴィエでさえムーア人を演じるために必要と考えたのに、ホーヴェ演出はこの選択を避ける。白人のハンス・ケスティングは、たくましい肉体を持っている。ヴェニスの名家の娘デズデモーナ(ヘレーヌ・デヴォス)とは対照的である。すぐれた体躯を持った異国の軍人オセローと、きゃしゃで抱きしめれば壊れそうな肉体のデズデモーナ、この対比を観るだけで、ふたりの間に文化的宗教的な対立があるとわかる。いや、オセローは、自分以外のすべての人間と対立しているからこそ、ヴェニスの元老院議員である父のブラバァンショー(アウス・フレイディナス・ジュニア)の呪いのような言葉を受けて、悲劇へと突き進んでいくのだ。冷静な判断ができない。原作戯曲を演出するとき、冷静であるはずの軍人オセローがなぜこれほどまでにイアーゴ(ルーラント・フェルンハウツ)の計略に乗ってしまうのかが説得力を持ちにくい。ホーヴェ演出は、ポストコロニアリズムの陥穽をくぐりぬけている。旧植民地への贖罪意識に囚われてはいない。あらゆる人間のなかにある欲望と暴力のありかたを鮮明に描き出していた。
続いて、現代的な制服をオセローやイアーゴらに着せた視覚的な効果が大きい。ホーヴェ演出でオセローやイアーゴは、頻繁に制服を脱いで、裸の上半身、ついには下半身さえもさらす。軍隊は暴力的な権力装置であるのはいうまでもない。その長たる将軍は、絶大な権力を握っている。けれども制服を脱いだとたん、もろい生身の肉体を抱えている。どんなに筋肉質で立派な肉体であろうと、刃を当てれば血が噴き出す。嫉妬に狂えば、狂気に取り憑かれる。人間の欲望の果てしなさ、愚かさを舞台にたたきつけたところにホーヴェ演出の鋭さがある。
このホーヴェ演出の『オセロー』舞台とリチャード・トワイマン演出の『危険な関係』については、雑誌「悲劇喜劇」の1月号に詳しく書く。ご期待ください。

2017年10月29日日曜日

【劇評87】寓意による現代批判 イキウメの『散歩する侵略者』をめぐって

現代演劇劇評 平成二十九年十月 シアタートラム 

SFには寓意がある。そのために社会諷刺に絶大な力を持つ。つまりは、現実の権力や社会を特定せずに、人類普遍の問題を摘出して、鋭く批判する構造を持っている。
前川知大の多くの作品は、このSFが持つ寓意性を活かしている。六年前の旧作『散歩する侵略者』(前川知大作・演出)もまた、こうした構造が、二○一七年の現在をも照射する。どことはあきらかにされないが基地のある町が舞台である。その中都市のありふれた人々が「宇宙人」が地球侵略を行うための攻撃にあうという設定である。もっとも、この攻撃とは暴力によるものではない。人間が持つ「概念」を奪う。「宇宙人」に概念を奪われた人は、その概念を失ってしまう。
「宇宙人」に身体を乗っ取られた加瀬真治(浜田信也)は、妻鳴海(内田慈)と別居していたが、三日間の失踪のうちに「宇宙人」に身体を乗っ取られたために、ふたたび妻との関係が深く結ばれていく物語である。
真治が、妻の姉船越明日美(松岡依都美)から奪うのは「家族」という概念であり、次ぎに浜であった丸尾清一(森下創)から奪うのは「所有」という概念である。この運びによって、いかにこのふたつの概念が、人間の自由を阻害しているのではないか。そんな作者の主張が見えてくる。ここには痛烈なアイロニーが込められている。
また、高校生の天野真(大窪人衛)や大学生の立花あきら(天野はな)と、ジャーナリストの桜井正蔵(安井順平)、医師の車田寛治(盛隆二)、明日美の夫で警察官の船越浩紀(板垣雄亮)の間には、決定的な世代間の価値観の相違が横たわっている。そればかりではない権力性を帯びたマスメディア、医療、警察と個人との対立が、先鋭化したかたちで描かれている。
もちろん寓話である以上は、単純化、抽象化が行われているのはいうまでもない。たとえば「愛」という概念には「喜び」や「哀しみ」が隣接しており、ひとつの概念だけを抜き取るのは不可能だという反論も成り立つ。けれども、こうした寓話を巧みに使わなければ、届かない思い、届けたい主張があることを重くみたい。
また、『太陽』でいえば、夜の住人と普通の人々、近作の『天の敵』でいえば、食血をする人々とされる人々のような二項対立がある。『散歩する侵略者』では、宇宙人と普通の人々が、否応もなく対立している。前川はこの対立を善悪で切り取るのではない。むしろ「宇宙人」とは、地球外生物ではなく、人類の歴史のなかで、侵略そして征服を企ててきた一部の人間を指すのではないか。そんな絶望的な思いが劇を観ているうちに立ち上がってくる。
きけば、前売とともにチケットは完売だという。この劇の内実、水際だった演出、自信に支えられた俳優陣、そして良心的な価格設定を考えれば、完売も当然であろう。もっとも優先的に観るべき集団のひとつとして、前川が主宰するイキウメが定着したのはいうまでもない。十九日まで、シアタートラム。そののち、大阪、北九州を巡演。


2017年10月22日日曜日

【閑話休題69】投票率と未必の故意

 午後八時で、衆議院選挙の投票が締め切られる。私自身は、昨日のうちに期日前投票を済ませた。自宅から投票所までは至近の距離なので台風を恐れてではない。自分のなかで投票行為を早く完結させたかったからだ。
私の住む投票区は、公明と共産の一騎打ちとなった。したがって有権者はほぼこの二択を迫られることになる。比例区でどの政党を選択するかが選択肢となる。したがって、投票日まで迷うような余地もなく、期日前に投票してしまった。
今回の投票率もはかばかしくないようだ。とはいえ私自身がそれほど投票行動に熱心だったわけではない。時代の変化が感じられる節目に投票してきたに過ぎない。ただし、死に票となることが明らかな場合にも、それをいとわずに投票してきた。
近年は地方選挙にも積極的に投票するようになった。それは現在の政権と時代の空気があまりにも息苦しく、危険な兆候を感じるからだ。このままでは憲法改悪どころか「不可避的に巻き込まれた」などの名分のなかで戦争に日本が関与していくことも充分ありえると思っている。有権者である以上、投票行動は政治参加の基本にある。一部に棄権をすすめるような言動も観られるが、これも逆説と受け取るべきだろう。棄権をすすめることで、投票をすすめられていると私は考えている。
今、五時半を少し過ぎた。
地域によっては暴風雨となっているだろう。けれど、もし可能であれば、投票にいっていただきたいと私は思う。
六十歳近くなるまでは、政治的な意見を公表することはなかった。保守であれ、リベラルであれ、レッテルは問わない。ある程度の投票率があれば、その結果に納得がいく。無力感しかない投票率であれば、今後の日本がどこへ進むか「未必の故意」が有権者にあったと、のちに責められても仕方がないとさえ思う。

【劇評86】仁左衛門の実悪。水右衛門に色気。

 歌舞伎劇評 平成二十九年十月 国立劇場。

天皇の退位の時期が決まり、平成の世も遠からず終わることになった。平成歌舞伎の光芒を伝える舞台を目に焼き付けておきたい。そんな気持ちで国立劇場の『通し狂言 
霊験亀山鉾 ー亀山の仇討ー』を観た。
仁左衛門が座頭として藤田水右衛門と古手屋八郎兵衛を勤める。脇を固めるのは、播磨屋吉右衛門と同座することの多い雀右衛門、又五郎、歌六。そこに彌十郎、錦之助、孝太郎も加わるのだから、座組に不足はない。実力のある俳優で、四世鶴屋南北が仕組んだ台本を味わう。至福の体験である。
序幕第二場、石和河原仇討の場から、役者の魅力があふれでる。仁左衛門が演じると実悪の水右衛門に色悪の魅力が加わる。兵介の又五郎のきりりとした様子、官兵衛の彌十郎の捌き役の風格さえ漂わせる大きさ、三人が絵面に決まっただけで、歌舞伎は役者ぶりを観る演劇だと思い知らされる。役柄と役者の複雑な関係に、観客の想像力がからむとき、喜びが生まれる。
時代の幕ばかりではない。二幕目、世話となってからも、こうした役柄、役者、観客のせめぎあいが舞台を作る。仁左衛門が水右衛門から八郎兵衛に替わりるのが最大の見どころだ。加えて弥兵衛実ハ源之丞の錦之助をあいだに、芸者おつまの雀右衛門と丹波屋おりきの吉弥がやりとりする場面に陶然となる。ひとりのいい男に、ふたりの女。
また、この場では団扇の絵を手掛かりに、おつまが八郎兵衛と瓜二つの水右衛門と思い込む取り違えもまた見物になる。『鰻谷』を踏まえている。
近代の劇構造からすれば不自然な取り違えも、初演の五代目幸四郎の存在が前提にあり、今、大立者となって風格を漂わせる仁左衛門がいれば、十分に成り立つ。歌舞伎は役者を観るものとすれば、なんの不自然もない。
駿州中島村の場では、狼が出没してふたつの棺桶が取り違えられ、次の焼場の場で火に掛けられた棺桶のタガがはずれて、水右衛門が不敵に登場する趣向へと繋がっていく。
芝居になっているのは、三幕目機屋の場。ここでは秀太郎の貞林尼がみずから自害して肝の臓の生血を孫に与える件がみもの。息をつめた芝居を秀太郎が全体を締めつつ運んでいく。いささか身体が不自由に見えるもののさすがの芸力を見せつける場となった。秀太郎が品格を失わず、孝太郎が派手なところをのぞかせるのも対照の妙。
大詰は祭礼の雰囲気を、陰惨な敵討に取り入れるのが趣向。ここでも仁左衛門が実悪の大きさを見せつける。水右衛門をおびきよせる頼母一役を歌六が勤め舞台を引き締める。
母子に助太刀もあって水右衛門が敵討されると、直って「まずはこれぎり」と幕切れ。古典歌舞伎の醍醐味をもたつくことなく趣向で見せた好舞台。二十七日が千穐楽だが必見であろう。

2017年10月13日金曜日

【閑話休題68】永井愛作・演出の『ザ・空気』が思い出される。衆議院選挙について。

 連日、大きな組織による不正が報じられている。商工中金、神戸製鋼、日産自動車、東芝と、まるで負の連鎖が続いているかのようだ。
それにしても、日本社会からモラリティが失われたのは、いったいいつ頃からだろう。近年明らかになった事実は、どこまでさかのぼれるのだろうか。モラルハザードが崩壊したとすれば、それは経済界だけではない。安倍晋三首相が、森友・加計問題への説明・弁明を怠ったまま、衆院議員解散を強行した時点で、政治に関するモラルもまた、地に落ちたと考える。安保関連法案をとどめることができなかった私たち市民がいかに現実を直視するかが、今回の投票で問われている。
欺瞞や不正など人類の誕生からあった。組織はそのような腐敗を必然的に生むとの反論もあるだろう。それだけに人類は、種の生存と地球を守るために、法による統治を求めてきた。立憲主義はその根本にあり、多くの戦争を経験してきたあげく、ようやく手にした現行の憲法を改悪しようとする勢力には、欺瞞や不正をものともしない邪心がある。
もちろん、正義と真実ばかりを尊いとするのではない。むしろ、希望を強調して国民を思っているかのように主張する勢力にも、また大きな邪心が潜んでいるように思えてならない。
毎日の生活に追われるがゆえに、なにか大切なものが犠牲になってはいないか。テレビの報道の現場を鋭くえぐった永井愛作・演出の『ザ・空気』が思い出される。メディアの内部にも、忖度と圧力と排除が蔓延している現実を先取りにして舞台にしていた。ジャーナリズムからもモラルが失われて、事実は巧みに隠蔽される。初演は、今年の一月だが、この鋭角的な告発を受け止めることができず、手をこまねいていたがゆえに、この十月の陰鬱きわまりない現実がある。そう自問自答せずにはいられない。

【劇評85】エロティシズムの醸成。玉木宏、鈴木京香による『危険な関係』

現代演劇批評 平成二十九年十月 Bunkamuraシアターコクーン

舞台の根本にはエロティシズムがあるのは洋の東西を問わない。肉体を観客の視線にさらす演劇や舞踊では、色気がその空間を支配しているならば、そこには演じる者と観る者の間に陶酔が生まれる。
クリストファー・ハンプトンによる『危険な関係』(広田敦郎訳、リチャード・トワイマン演出)は、書簡小説の嚆矢といわれるラクロの原作を基にしている。貴族社会の頽廃を描いて、人間の奥底に眠った欲望を掬い取っている。今回の舞台も、こうしたエロティシズムの醸成に怯まない。あえていえば、上質なポルノグラフィであることを恐れない。けれども、決して品位を失わない。このあたりが、トワイマン演出、ジョン・ボウサー美術・衣裳の洗練された演出と視覚イメージの手柄であろう。
けれども、いかに洗練された演出を得ようとも、俳優の肉体に魅力がなければ、『危険な関係』は成り立たない。ヴァルモン子爵を演ずる玉木宏の引き締まった上半身。誘惑の視線があって観客は、まず魅了される。さらにメルトゥイユ侯爵夫人を勤めた鈴木京香の豊満で華やかな空気感もまた、作品全体にゴージャスな彩りを与えていた。
トゥルヴェル法院長夫人の野々すみ花が貞淑なたたずまいから、急激に恋にもだえる過程の振幅。ダンスニーの千葉雄大の幼さがゆえの残酷。セシルの青山美郷の可憐と、恋愛と謀略のただなかにいる人物の造形が多彩なのは、配役のみならず、演出の手腕だといっていい。娼婦エミリの土井ケイトも不埒な様子がおもしろい。
そして全体を引き締めるのは、セシルの母ヴォランジュ夫人の高橋惠子、ヴァルモンの叔母ロズモンド夫人の新橋耐子で、枯れたそぶりのなかに、かつての放埒な日々を感じさせるのはさすがである。
美術・衣裳ともに十九世紀の時代には、あえてこだわらない。フランスのインテリアから離れて、盆栽や襖を思わせるセットを組んだ。演出家と美術家の幸福な緊張関係があって、このような美的な舞台が生まれる。
一九九一年。ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーは、パナソニック・グローブ座で来日公演を行った。デヴィッド・ルヴォー演出の舞台が思い出される。今回のトワイマン演出は、まぎれもなく二十一世紀の頽廃を映し出していた。三十一日まで。

2017年9月19日火曜日

【劇評84】ロロの『BGM』。ロード・ムービーの演劇的展開

現代演劇劇評 平成二十九年九月 ザ・スズナリ

ロードムービーが好きだった。
『イージー・ライダー』『ペーパー・ムーン』『パリ・テキサス』『スタンド・バイ・ミー』『砂の器』『ブエノスアイレス』のような思い出深い映画が直ぐに思い浮かぶ。なぜ、あれほど好きだったのだろう。私はまだ子どもだったから、自動車の運転も出来なかったし、列車や航空機にのることもかなわなかった。どこかへ、気ままに言ってみたい気持ちは、どんな子どもにも取り憑くに違いない。
映画として考えると、こうした子どもの欲望を元にしながら、主人公たちの関係が、風景とともに変わっていく、そのプロセスを描くのに向いている。つねに動いていなければいけない映画は、ロードムービーという形式にうってつけなのだ。
と、考えると演劇にロードムービーの形式を取った舞台がほとんど見当たらないのに気がつく。自動車に乗っている場面でさえも少ない。今回、ロロの『BGM』(作・演出三浦直之)を観て思ったのは、ロードムービーと音楽に対する偏愛なのであった。
「BBQ(バーベキュー)」と「泡之助」のふたりは、大学時代の同級生「午前二時」を訪ねて旅にでる。それは、常磐道を北上し、守谷、いわき、仙台、会津若松をめぐる。それはかつて十年前にこの三人で気ままに遊んだ旅の再現だった。もっとも午前二時(島田桃子)は、その行き先で待っている。彼女の結婚式を祝い、余興をするためにBBQ(篠崎大悟)と泡之助(亀島一徳)は、過去を懐かしむ旅を続けている。そのなかで守谷のインターチェンジでは役者の綾乃(望月綾乃)を拾い三人旅になる。そのうちに謎の占い師繭子(森本華)や少年MC聞こえる(井上みなみ)や金魚すくい(油井文華)や未亡人ドモホルンリンクル(石原朋香)らと知り合う。午前二時とかつてつきあっていた永井(江本祐介)も時空を超えて、旅する人々と絡む。現実と幻想の境目のなかを物語は浮遊していく。少年役を含めて、女優達が、ふたりの「弥次喜多」と関わっていく不思議が面白い。綾乃や繭子をはじめ個性が際立っている。
『BGM』がすぐれているのは、まず、奇想を持ち込むことで、演劇独自のロード・ムービーを成立させたことだ。リアルによらずに時空を自在にまたぐことのできる演劇ジャンルの特性を活かしつつ遊んでいる。
また、映画のロード・ムービーの多くが、ふたりの男の親密さが、ひとりの女性をあいだにおいて、より深まっていくところにある。その親密さはときにバイセクシュアルな関係ともなる。『BGM』は、たとえばつかこうへいの『蒲田行進曲』のように、銀ちゃん、ヤス、小夏のような固定的な三角関係を取らない。午前二時、アヤノ、占い師、ドモホルンリンクルのような謎の女性が点在し、それぞれの背景にある物語のすべては明かされずに宙づりになっている。加えて、女優が演じる少年ふたりがとびきり魅力的で、「いつかは大人にならなければならない」この物語の哀切な主題を体現している。
思い出深い場面がある。
砂浜でラップによる競争がある。音楽にあわせて、言葉を即興で紡いでいく。そのぎこちなさがまた胸を打つ。人はどんなに言いたいことがあっても、容易には言葉に出来ない。まして音楽に乗せられない。そのもどかしさのなかで若い時代は過ぎ、すでに大人になってしまった自分に気がつくのだろう。
旅のルートから思い出されるのは、東日本大震災による被害である。劇中、巻き貝のエピソードでは、青春18切符のCMコピーがたびたび登場する。あるメッセージがなにかの装置に保存されて、のちの世に伝えられたら。しかも青春18切符は年齢に関係なくだれでも購入できる。自由できままな日々はいつでも取り戻せる。そんな願いを私は読み取った。

美術は、杉山至、中村友美。ベールのような白いローブで見えそうで見えない現実を描く。衣裳は臼井梨恵でそれぞれの役に違ったグラデーションのレインボーカラーを選び示唆的であった。

下北沢、ザ・スズナリ。十九日まで。三重公演、仙台公演もある。

2017年9月3日日曜日

【劇評83】ケラリーノ・サンドロヴィッチ流の『ワーニャ伯父さん』

 現代演劇劇評 平成二十九年八月 新国立劇場小劇場

KERA流の『ワーニャ伯父さん』(アントン・チェーホフ作、上演台本・演出ケラリーノ・サンドロヴィッチ)を観た。

原作を尊重しつつ、上演台本を作成する。稽古場で受けの芝居やタイミングのずれで、人間本来の滑稽を浮かびあがせていく。この手法はこれまでの『かもめ』『三人姉妹』から一貫している。本来AからBへと話しかけられているはずの台詞は、実はCへと投げかけられている。そんな演出家としての読みは、おそらくは上演台本を作る過程で明快になっていくのだろう。上演台本にギャグを入れることで笑いをつくりだすのではない。聞こえないふりをしたり、自分の都合のいいように相手の言葉や表情を解釈したりする人間のダメさ加減が、KERA演出の根幹にあるとよくわかった。

また、ドラマにおいて笑いを作りだすのは、権威をかさにきた人間を引きずり下ろし、また、忍従に耐える人間に崇高さを見いだす方程式によるものだろう。このような解釈は従来のチェーホフ上演になかったわけではないが、この舞台ではなにか「歪み」のようなものが演出に混在する。けれど、舞台であるからは演出の意図だけですべては終わらない。現実の上演ではキャスティングの問題が介入する。役者がこれまで背負ってきたイメージは、現代演劇においても、否応もなく役柄に影響を与える。

たとえば、退職した教授のセレブリャーホフの山崎一を過度に滑稽にしたために、なぜ段田安則のワーニャと黒木華のソーニャが長年仕送りをつづけてきたのかが不分明になる。極論すれば、ふたりはセレブリャーホフの正体を見破らずにここまできてしまった愚かさが終幕にいたって大きく見えてしまう。

あえていえば、宮沢りえのエレーナが突出しているために、この特権的な美貌と魅力を持った存在が、いかに例外なく周囲の人間を変え、そして静かな領地が恋愛の戦場へと変わっていったか。関係性の変化の物語として成立している。

山崎のセレブリャーホフは、終幕、この館を去るにあたって、宮沢の妻エレーナと横田栄司のアーストロフの抱擁を目撃している。この衝撃を受けて、別れの挨拶がある。ケラリーノ・サンドロヴィッチの上演台本は手元にないので、標準的な神西清訳を引用する。

セレブリャーコフ(ソーニャに接吻して)さようなら……皆さん、ご機嫌よう! (アーストロフに手を差し伸べて)愉しくご交際を頂いてありがとう。……わたしはもとよりあなたの物の考えようや、あなたの熱心や感激性を、大いに尊重します。だが一つだけ、この年に免じて、お別れのしるしに、一言忠告をゆるして頂きたい。皆さん、仕事をしなければいけませんぞ! 仕事をしなければ! (一同に頭をさげる)ではご機嫌よう!(退場)

とある。

さきにアーストロフに手を差し伸べられたのを拒んでおきながら、ここでは握手をする。しかし、私の聞いた限りでは、「熱心」を「熱情」に言いかえて、台詞を立てている。つまりは、全体に対する別れの挨拶ではなく、アーストロフに対する嫌味ともなっている。

これを「偉大なチェーホフ」を卑小にしたというべきではない。むしろ、ワーニャやソーニャを含めて、人々を「チェーホフの懸命に生きる人物」から解放した。ありきたりの人間に突然起こった心の嵐と捉えたいと思う。

段田のワーニャは、老年の入口にいる人間の絶望が見える。宮沢のエレーナは、夫と不釣り合いな美貌で舞台を圧する。『桜の園』のラネーフスカヤが射程に入っているのだろう。ウォイニーツカヤ夫人は、かたくなで難しい役だが立石涼子が、かつての魅力をしのばせる美しい声で演じている。

アーストロフは難しい役だ。クロロフォルムで患者を殺してしまった苦悩、エレーナに対するどうにもならないエロティックな思い、ソーニャに対する鈍感さは、チェーホフ独特の人格的に分裂したインテリゲンチャとして描かれている。かつてはよかった。けれど、今はくたびれている。
横田はこの一貫しない医師の役をくたびれきった元美青年ではなく、まだエレーナを「番小屋」へ誘惑できると根拠なく確信している男として描き出した。

乳母マリーナの水野あやは、館全体を体現し、サモワールをひたすら守る存在として劇全体の基調を作る。ギター演奏は伏見蛍。

宮沢りえ、黒木華に生彩があり、ふたりの代表作となるべき舞台となった。
九月二十六日まで。新国立劇場小劇場。

2017年8月15日火曜日

【劇評82】玉三郎写しの『刺青奇偶』

 歌舞伎劇評 平成二十九年八月 歌舞伎座

八月納涼歌舞伎の第一部、第二部は、高い青空が見えたとはいいがたい。

まずは長谷川伸の『刺青奇偶』(坂東玉三郎・石川耕士演出)は、玉三郎の目が光る。冒頭の酌婦、お仲(七之助)は、風情、口跡、所作いずれも玉三郎写しで、七之助が行儀良く初役を勤めている。冒頭、舞台の照明が暗いこともあって、玉三郎がお仲を勤めているのかと目を疑った。それほど忠実な写しだと思った。

中車の半太郎が、また、すぐれている。歌舞伎のなかでの居場所が次第に定まってきたが、慢心が見えない。

人生にとことん失望した女が、それでも惚れてしまういなせな様子がよく序幕で、ふたりの不安定な関係をしっかりと見せる。これは七之助、中車の柄と仁をよく踏まえた演出の力によるものだ。

長谷川伸の劇作は、ときに前半と後半で、主人公二人の立場が逆転する。はすっぱだった酌婦が、病を得て亭主の将来を案じる。博奕打ちだった夫は、足を洗ったが、どうにもあがきがつかない。ふたりの思いがどうにも噛み合わないところに、劇作の巧みさがある。中車は後半、決して捨て鉢にならずに、未来へと一縷の望みを捨てない。細いながらも一本芯が通っていて説得力を持つ。

錦吾の半太郎父、喜兵衛。梅花の母おさくが、ふっと人生のむなしさを漂わせてよい。これほど貫目が出たのかと感心したのは、染五郎の政五郎。たしかに衣裳のなかに「肉」はいれているのだろうが、そんな外見など必要としないだけの落ち着きと貫禄が備わってきた。来年の襲名に向けて、一歩、一歩、努力を重ねているのだろう。

続いて踊りは、勘太郎の『玉兎』と、猿之助、勘九郞の『団子売』。勘太郎は踊りも得意とされる家に生まれただけに修業中の身。これからが楽しみだ。また、猿之助、勘九郞は、踊りの巧さに溺れず、風俗を写す役者の踊りに徹している。

第二部は、岡本綺堂の『修禅寺物語』(市川猿翁監修)。初世坂東好太郎の三十七回忌、二世板東吉弥の十三回忌。父と兄の追善を出せる役者となって、彌十郎渾身の舞台となった。いわゆる芸道物である。彌十郎の夜叉王は、はじめ気難しい面打ちと見せたところが、最後は、姉娘桂(猿之助)の断末魔を絵に写し取るだけの覚悟のある芸能者へと変わっていく。はじめから決意のある人物とするか、それとも、桂が頼朝(勘九郞)に望まれて家を出て、しかも頼朝が闇討ちを受け、桂が手傷を負い戻ってくる過程で、芸能者としての覚悟を強くしたのか。彌十郎は、全体を一貫させており、この役者、持ち前の人の良さを見せまいと勤めている。そのため、自分を律するに厳しい夜叉王となった。ときに自分の芸に対する自負や末娘楓(新悟)に対する愛情を強く出してもよい。

秀調の修禅寺の僧、巳之助の楓婿の春彦が、役をよくつかまえて、劇を支えている。

続いて『東海道中膝栗毛 歌舞伎座捕物帖』(十返舎一九原作、杉原邦生構成、戸部和久脚本、市川猿之助脚本・演出)。ラスベガスへ染五郎の弥次郎兵衛、猿之助の喜多八が旅をした昨年の納涼歌舞伎を前作として、趣向本意の芝居を立ち上げた。(片岡)亀蔵の役名に「戸板雅楽之助」とあるように、劇評家戸板康二の一連の名探偵雅楽物を意識した推理劇仕立て。名探偵コナンなども意識しているのだろう。見どころは、沢潟屋の芸、『義経千本桜』の『四の切』をトリックとしているところで、舞台裏の仕掛を見せているところが観客を惹きつける。

また、金太郎の伊月梵太郎と團子の五代政之助が、弥次郎兵衛、喜多八と対になっているとこも、ご趣向。

かつて『野田版 研辰の討たれ』で、十八代目中村勘三郎が、染五郎と勘九郞(当時・勘太郎)を「坊ちゃん一号、二号」と呼んで大笑いさせたのを思い出した。『四の切』に対する言及とともに、こうした役者の血縁をチャリとするのはさじ加減がむずかしい。二十七日まで。

2017年8月13日日曜日

【閑話休題67】演劇ブログをはじめて2年半あまりが過ぎた。

このサイトを始めたのは、2015年の1月。あれから二年半あまりが過ぎた。月に2-3度の更新にもかかわらず、「全期間のページビュー」が、20万を超えた。

投稿にもよるが、一日2000ビューを数えることもある。

ブログには大勢の読者を抱えているサイトがあまたあるので、数字としては多くはない。

また、20万といっても、20万人が読んだわけではなく、リピーターは相当数いるだろう。

内容も歌舞伎・現代演劇に関する劇評と身辺雑記が中心で、専門的な内容のブログを愛読して頂き、感謝しています。

このブログを続けるに当たっては、さしたる困難はなかった。
歌舞伎の大立者から、仲介者を通して、「問い合わせ」という形で、やんわり抗議もうけたりした。また、また違う大立者のご家族から、時候の挨拶によせて「やんわり」抗議のお葉書をいただいたこともあった。

けれども、こうした抗議は、批評を続けている限り、かならず訪れる出来事で、格別、ブログだから受けたというわけではない。

仲介者となられた方には「注目されている証拠です」と慰められたが、確かに無視されているよりはよいとの考えもある。

けれども、このブログを、芝居の幕内、具体的には、俳優や演出、制作に向けて書いたことはない。



かといって、読者に親切になどと殊勝な心がけにも欠けている。

新作以外は粗筋も書かないし、歌舞伎役者の姓を書くこともない。難読と思われる用語も、よほどのことがないかぎり、ルビをふることもない。

ほとんどの文章は、それほど時間をかけずに書いている。
そのため誤植も散見し、六条亭さんはじめ、熱心な読者の方から、アップロードした直後にご指摘があり、とても助けられている。

私的なおぼえがき程度のものを大事にしてくださっていると思うと、
もう、少し続けようかなと励まされている。

この九月号から早川書房の『悲劇喜劇』で、400字詰め原稿用紙15枚の連載をはじめた。

初回はジョン・ケアード演出の『ハムレット』と野村萬斎演出の『子午線の祀り』について書いた。

隔月刊なので次は10月はじめに11月号が出る。

ここでは、八月納涼歌舞伎の『野田版 桜の森の満開の下』について書く予定でいる。

これからも、このブログでは速報性を大事にしたい。雑誌連載では、読みものとしての批評の可能性をさぐっていきたい。

みなさまどうぞご愛読をよろしくお願い申し上げます。

2017年8月12日土曜日

【劇評81】『野田版 桜の森の満開の下』七之助の夜長姫の残酷

歌舞伎劇評 平成二十九年八月 歌舞伎座

八月納涼歌舞伎、第三部は、満を持して『野田版 桜の森の満開の下』が上演された。野田秀樹がかつて主宰していた夢の遊眠社時代の代表作であり、平成元年の初演以来、京都南座、大阪中座を含む伝統的な様式を持つ劇場でも上演されてきた。

十八代目中村勘三郎が健在のとき、『贋作・桜の森の満開の下』の上演が企画され、勘三郎(当時・勘九郎)の耳男、福助の夜長姫を前提に、歌舞伎化する脚本がすでに進行して、三分の一が書き上がっていたと聞いている。結果として、勘三郎と野田の歌舞伎での共同作業は、平成十三年の『野田版 研辰の討たれ』が先行して、野田は歌舞伎座六度目の演出となる。

現・勘九郎の耳男、七之助の夜長姫の配役で観て、野田三十歳の若々しい文体には、若い歌舞伎役者の肉体がふさわしいと思った。

この物語は、アーティストの耳男が、芸術の源泉となる力を追い求める物語である。彼にインスピレーションを与えるのは、夜長姫の美と残酷である。夜長姫は妖艶な美しさを放つばかりか、耳男の耳を切り取り、耳男のアトリエに火をつけることも辞さず、妹の早寝姫(梅枝)の首が吊られようとも平然としている。この二人の関係性が、勘九郎、七之助の踏み込んだ演技によって鮮明になった。

芸に一心に打ち込む耳男の真摯、そして酷いまでの残酷で他者を狂わせていく夜長姫がいい。特に、これまで女優によって演じられてきた夜長姫が、女方に替わって、その残酷を躊躇なく表現している。野田の歌舞伎作品のなかでも、もっとも、人間の精神性を深く描ききり、しかも国作りと歴史の改ざん、敗北した国の民を「鬼」として排斥していく人間の身勝手さが背景となっている。

染五郎の天武の大王(オオアマ)が大らかでありながら野心に燃える姿を活写。猿弥のマナコが野人の貪欲な欲望を精緻な演技で浮かび上がらせる。また、(片岡)亀蔵の赤名人、巳之助のハンニャロ(ハンニャ)が対となって狂言を回していく。彌十郎のエンマ、扇雀のヒダの王に、異界と現実界を支配する男の大きさがある。

zAkの音響と田中傳左衞門の作調がすぐれたコラボレーションを実現した。重低音の表現、また、笛による自転車のブレーキ音など、細部まで見どころがおおい。歌舞伎はまぎれもなく音楽劇であるが、空気感を創り出し、劇場を埋め尽くす音の力が大きい。それもまた、歌舞伎なのだと考えさせられた。二十七日まで。

2017年8月6日日曜日

【閑話休題66】夏休みの過ごし方

みなさま、お暑うございます。先日お知らせした演劇雑誌『悲劇喜劇』の九月号が出ました。
特集は「演劇とジャーナリズム」です。劇評を取り巻く環境が激変している中、
タイムリーな企画と思います。江原吉博さんの「新聞劇評は絶滅危惧種?」が読ませます。
江原さんが二十八年あまり続けてきた東京新聞の夕刊芸能面が紙面改革でなくなったところから文章ははじまります。

また、新連載のプロデューサー中根公夫さんの「愛しき面倒な演劇人」の第一回は、劇作家の秋元松代さんの驚くべきエピソード。
お腹をかかえて笑いました。ただ、秋元さんが某氏に襲いかかる現場にいたら、さぞ恐ろしいことでしょう。

私の新連載「シーンチェンジズ」は、『ハムレット』と『子午線の祀り』をめぐる気ままな閑談です。
どうぞお読み下されば幸いです。


2017年7月16日日曜日

【閑話休題65】雑誌「悲劇喜劇」で連載をはじめることになりました。

新しく雑誌の連載を始めることになりました。
早川書房発行の『悲劇喜劇』9月号(8月7日発売)からスタートします。
先週、第一回の原稿を入稿したところです。
毎回、400字詰めで15枚の原稿を書くことになりました。

タイトルは「シーンチェンジズ 長谷部浩の演劇夜話」と決まり、
頁のデザインも固まりました。
場面転換を意味する用語です。
はじめは「つれない女」とか「去年の雪」などと、
ひねりまくったタイトルを考えていたのですが、
懐の深い編集者にやんわりと断られ、
今のタイトルに落ち着きました。
ダメといわないで筆者を導くのが、
よい編集者というものですね。
もちろん、今はこの「シーンチェンジズ」というタイトルに満足している。

実はこの連載、編集部と話をしてから、
はじめるまでになんと、二年半が経過してしまいました。
なんともスロースターターで気恥ずかしい。
やれやれ。
弁解がましくなるのですが、この間、『天才と名人 中村勘三郎と坂東三津五郎』や『権力と孤独 演出家蜷川幸雄の時代』の二冊を書き下ろしていたので
とても長文の劇評を書く余裕がありませんでした。

この間、すこし考えが変わって、
劇評の要素もある閑談のような形を考えています。

第一回で書いたのは、ジョン・ケアード演出の『ハムレット』と
野村萬斎演出の『子午線の祀り』ですが、
直近の舞台から、舞台や書籍の想い出を掘り出して、
思いつくままに書いていこうと思っています。
今回は蜷川幸雄演出の『ハムレット』や古川日出男現代語訳の『平家物語』の話も出てきます。
とりとめない断章ですが、演劇好きの読者にとって、気楽な読みものになれば嬉しく思います。

果たしてどんな流れになるかは、定かではありませんが、
古典、もしくはそれに準じた作品を扱っていきます。

現代演劇と歌舞伎の垣根を越えて、ひとつらなりに書けたらと思っています。


【劇評80】愛嬌を売らない菊之助の大蔵卿

歌舞伎劇評 平成二九年七月 国立劇場

歌舞伎鑑賞教室も九二回目。私自身も高校生のときに、団体で鑑賞した。この舞台が若い世代と歌舞伎との出会いとなる場合が大木だけに演目の選定には、なみなみならぬ苦心があるのだろう。
今月は菊之助初役の『一條大蔵譚』。「檜垣茶屋」と「奥殿」が出た。初役といっても、常盤御前、鬼次郎、お京と主要な役はすでに勤めているから、この大蔵卿で仕上げとなる。
監修は吉右衛門。それだけに愛嬌に頼るよりは、世を厭うて、狂言三昧にあけくれる趣味人の苦渋が滲み出る舞台となった。
門からの出で、菊之助の大蔵卿は、幼いそぶりを貫いている。(尾上)右近のお京の舞を愉しむ場面がいい。心底、狂言の世界に遊ぶ粋人の様子が描出される。菊三呂の鳴瀬とお京を相手に「太郎冠者のお京あるかや」と趣向を楽しむ件は、三人がいっとき憂き世を忘れるだけの弾みがほしい。
かりそめの阿呆振りは、なかなかに手強い。そのかわり「奥殿」に入って、世を忍ぶ仮の姿をかなぐり捨ててからの立派さ、大きさは、この鑑賞教室で「渡海屋・大物浦」の知盛を経験した蓄積が生きている。彦三郎の鬼次郎に落ち着き、右近のお京にさわやかな色気がある。常盤御前は若手には荷が重いが、進境著しい梅枝だけに、人生の辛酸をなめてきた御前の心の内をのぞかせている。
浄瑠璃が〽秋の木の葉と散りていく」を受けて「無念にあろう、道理道理」と受ける件は、軍物語のようで味わい深い。
〽彼の唐土の会稽山、恥を雪ぎし越王の」をじっくり聴いて、衣裳ぶっ返りとなり、打ち上げの見得に至る見せ場は、吉右衛門の指導が行き届いているのだろう。単に大きく見せるばかりではなく、華やかな人となりがある。愛嬌を売るのではなく、品格をみせていく行き方。音羽屋の血も生きて、菊之助が神妙に勤めている。

【劇評79】海老蔵を活かす復活狂言

歌舞伎劇評 平成二九年七月 歌舞伎座夜の部

歌舞伎座夜の部は、海老蔵と長男勸玄が宙乗りを勤める『駄右衛門花御所異聞』を通す。竹田治蔵作の芝居を復活させた台本(織田絋二、石川耕士、川崎哲男、藤間勘十郎 補綴・演出)で、海老蔵の魅力の源泉をよく理解している。
海老蔵がなぜ歌舞伎で突出した人気を誇るのか。それは荒事の暴力性と和事の柔らかさのあいだを自在に横断する力がそなわっているからだ。また、その振れ幅が大きく、まるで目くらましにあっているかのような幻を観客にもたらす。
海老蔵は、発端から廓遊びに入れ込んだ玉島幸兵衛を演じたかと思うと、一転して、日本駄右衛門に替わって骨太な悪党振りをみせる。この振幅こそが海老蔵の真骨頂だろう。
二幕目第一場は、大井川の場。巳之助の月本始之助と新悟の傾城花月の道行。富士を望む街道をいく。この色模様を所作事で見せるだけの力をふたりがそなえつつあるのに目を見張る。
第二場のお才茶屋で児太郎お才の名にふさわしく才気走った女の魅力を発散する。「こんな金の亡者は見たことがない」との評言が笑いを誘うだけのしたたかさがあって、底を割らない。
九團次のお才の兄長六が金をせびるときのせこい様子、廣松の寺小姓采女の色気もよい組み合わせとなっている。弘太郎の駄右衛門子分早飛もさまになっている。海老蔵の幸兵衛は、ここで廻国修業の僧となって現れるが、やがて殺し場になって、血が流れ、小判が手水鉢からあふれ出る。人間の欲望が全開となる場で、『伊勢音頭恋寝刃』の貢が二重写しになる。
海老蔵を中心に、若手の力を引き出す台本と演出で、新しい世代の歌舞伎を予感させる舞台となった。
さて、お待ちかねは、海老蔵と勸玄の宙乗り、私が見た日は客席に親しい人を見つけたのか、勸玄が指をさして海老蔵に知らせ、手を振る余裕を見せた。花道の出といい舞台度胸がよく満場の喝采を浴びた。これも歌舞伎なのだ、いやこれが歌舞伎なのだと実感させれらる。
大詰は、東山御殿の場から奥庭に続き、さらに御殿にいってこいとなる構成。焔に包まれるなか、ゾンビのような亡者があふれる演出がおもしろい。
繰り返しになるが、海老蔵という役者を活かし抜いた舞台であった。

2017年5月28日日曜日

【劇評78】安全な食をめぐって。イキウメの新作

現代演劇劇評 平成二十九年五月 東京芸術劇場シアターイースト 

現代演劇の地図は、蜷川幸雄の死によって大きく変わりつつある。そのなかで、野田秀樹やケラリーノ・サンドロヴィチとともに重要な位置を占めるのは、前川知大とイキウメである。奇想にとんだ劇作、役者の身体を生かした演出、個性的で観客への訴求力のある俳優。現在最高の水準を保つ劇団のひとつである。なかでも俳優たちが、演技に誇りと自信を持っている姿を観るとすがすがしい気持になる。
新作『天の敵』(前川知大作・演出)は、二〇一○年に初演されたオムニバス『図書館的人生VOL.3 食べもの連鎖』に納められた「人生という、死に至る病に効果あり」を長編に改稿した舞台である。初演からこの魅力的な題材は、群を抜いていた。人類が誕生してから現在まで、決して手にすることができなかった不老不死の可能性を問い詰めている。
ジャーナリストの寺泊(安井順平)は、妻の優子(太田緑ロランス)に紹介されて料理研究家の橋本(浜田信也)の教室を訪ねる。菜食主義に至ったその来歴を聞くうちに寺泊は、橋本の数奇な物語に引き込まれていく。
本来ならば当年一二二歳になる橋本は、戦前に独創的な食事療法を提唱した医師、長谷川卯太郎その人だった。前川の作は巧妙な作劇を仕掛けている。この不老不死の物語を聞く寺泊は、現在難病をかかえており、子供も幼い。この奇妙な食事療法を実行すれば、自らの死が回避できるかも知れない。そんな寺泊の切実な動機によって、信じがたい物語が説得力を持つ。
『太陽』でも日の光が主題のひとつとなっている。太陽を忌避しなければならぬ宿命となった人間の屈折もまた胸を打つ。
現在を過去を交錯させる前川の劇作、小道具を巧みに用いて過去が現在へとなだれこんでいく前川の演出。いずれも「騙り」の技術に裏打ちされている。
ストーリーテラーによる奇譚に終わらないのは、なぜか。食事は人間の生命の根幹にあり、安全で危険の少ない食材は、富によって独占されかねない。いや、現在でも寡占されているのではないか。そんな問いが頭をもたげてくるからだ。他者を犠牲にすることによって、自らの生存をはかる。そんな人類の残酷な歴史までもが、この食をめぐる物語には凝縮されている。小野ゆり子が巧みな演技を見せる。明晰な村岡希美の台詞回し。六月四日まで。

【劇評77】取り残された白人たち 松岡昌宏の感情

現代演劇劇評 平成二十九年五月 紀伊國屋ホール 

アメリカの闇は深い。
ひとつにはできないのは承知しているけれども、マンハッタンとその周辺。地方中都市とその周辺には、抜き差し難い裂け目があって、人間たちを蟻食地獄へ呑み込んでいる。
J.D.ヴァンスの『ビルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち』(光文社)を読んで、オハイオ州の「ラストベルト(さびついた工業地帯)」の物語は、衰えたといえども世界経済に君臨しているはずのアメリカが、いかに困難を抱えているかを教えてくれた。
続いてジャン・パトリック・シャンリーの『ダニーと紺碧の海』(鈴木小百合翻訳 藤田俊太郎演出)を観た。ここにはニューヨーク州の北端にあり、マンハッタンからほど近いブロンクスの八十年代が描かれている。プアーホワイトに属するダニー(松岡昌宏)は、トラックの運転手だが、会社や同僚とトラブルを起こし、昼間から飲んだくれている。カフェで偶然出会ったロバータ(土井ケイト)は、離婚歴があり小さな子供を抱えているが、家庭内で深刻なトラブルを抱えている。怒りに取り憑かれた男と罪悪感にとらわれて深い悲しみをたたえた女が、一夜をともにする。
ここには、生まれながらに、社会と適応する条件に恵まれなかった人間がいる。いかにあがいても、この土地から出ていくのはむずかしい。夢想のなかでしか快適な生活は送りようもない。社会や他人への不満、自己嫌悪と厭世観の強固な檻のなかに、蠢いているほかはない。
演出の藤田俊太郎は、この二人芝居を単調な葛藤の劇にはしない。それぞれのキャラクターを決めて、対決と決裂、そして和解を描くだけでは終わらせない。ふたりがこのブロンクスのリングのなかで、刻々と間合いを変え、力関係を秤にかけ、役割を入れ換えながら、まさしく人間らしくあろうと生きていく姿を描き出す。
思い出深い場面がある。一夜の恋、一夜の夢、将来の期待を手にしたかに思えるふたりは、ひとつのベッドで眠る。ベッドサイドには、白いドレスを着た人形が置かれている。明かりが落ちる。眠りのとき、休戦のときがきた。そのとき人形は上からの光に照らし出される。まるで、ふたりの夢がひとつになって、幸せな結婚生活が約束されているかに見える。
けれども、現実はそれほど甘くはない。翌朝ふたりは、よりシビアな闘いへと進んで行く。松岡は凶暴な獣が、いかに愛情に餓えているかを、叩きつけるような感情とともに表現する。土井は人生をあきらめかけた女性が、いかに絶望し、根こそぎ希望をはぎ取れているかをあからさまにする。ふたりは俳優として自らをさらし、他人を演じることで、自らを発見する。その勇気と熱意と忍耐が観客を打つ。
私が観た回は初日近かった。音楽の使い方、ふたりの位置関係など、いささか甘い演出が目立った。ふたりに明るい未来が待っているかのような大団円であった。けれどと私は立ち止まる。二日間の闘いと和解は、これからの生活の序章にすぎないのではないか。大団円の向う側に、決して楽観できない未来がほのみえた。紀伊國屋ホール二十一日まで。兵庫県文化センター二十八日まで。

2017年5月27日土曜日

【劇評76】音羽屋坂東の輝かしい春

歌舞伎劇評 平成二十九年五月 歌舞伎座夜の部

仕事が立て込んで、歌舞伎座の夜の部を観るのが千龝楽の前日になってしまった。一部の演目をのぞくと、初日と千龝楽の前日に観たことになる。このあいだ、つらつらと考えていたのは、平成二十七年の二月に亡くなった坂東三津五郎の存在についてであった。十代目三津五郎は、先代三津五郎とともに、菊五郎劇団で育っている。今月の團菊祭は、亡き梅幸と羽左衛門の追善だから、もし、健在であれば、一座に加わっていたろう。
こんなことを繰り言のように話すのは、老人めいていやなのだが、芯をとったとしたらどんな役を出しただろうとか、今月出た演目では、あの役、この役が当り役だったなあとか、もし教えを乞われたなら、この役あたりは三津五郎が教えただろうなと、どうしても思わざるをえない。せんない思いがふつふつと浮かび上がってくるのは、歌舞伎の世代交代が、否応もなく迫っているからなのだと思う。
夜の部は『対面』から、初代楽善の小林朝比奈、九代目彦三郎の曽我五郎、三代目(坂東)亀蔵の近江小藤太、そして彦三郎の長男六代目亀三郎が初舞台で亀丸を勤める舞台である。工藤は菊五郎、十郎は時蔵、大磯の虎に萬次郎、化粧坂少将に梅枝、鬼王新左衛門に権十郎と劇団幹部、そして近い親類で固めた配役となった。初日では、五郎の持つ力感が力余って四方に飛び散っていたが、さすがに千龝楽近くなると、カドカドのキマリが定まり、方向性も定まってきて、よい五郎になった。なにより荒事の一役であるから、「怒」の一字を忘れず、エネルギーを惜しまず、全力で勤めている。歌舞伎で芯を取ることの大切さがよくわかる。自信と充実が新・彦三郎にみなぎっていた。
もとより菊五郎は本来、十郎の役者だが、工藤に回る。座頭として当然の配役だが、威厳とともに、優しさがほの見える工藤になった。時蔵の十郎は、女方だけに優しく柔らかく、弟五郎の荒々しい振るまいを見守っている。初舞台の亀三郎は、しっかりとせりふをいって、舞台終わりの口上でも、姿勢がよく場のタイミングを読んでいて頼もしい。四人の襲名で、音羽屋坂東の輝かしい春となった。
続く『伽羅先代萩』は、「竹の間」を欠き「御殿」から。「飯炊き」が出ない。
菊之助が、政岡を勤めるのは、二度目。新橋演舞場で平成二十年だったから、ほぼ十年前。若さ故の勢いがあり、我が子を嵐のような熱情の末に、結果として犠牲にしてしまった哀しみがあった。今回はよりスケールが大きく、すべてをわかっているにもかかわらず、悲劇に巻き込まれていく。我が子千松に、大事があったときは「な」と言葉にはせずにいい含めるときの切なさ。女性官僚であるゆえに、我が子大事では生きられぬぎりぎりの状況を描線太く描き出した。お主のためお家のために、職務を果たさなければならぬ責任感と、我が子千松と若君鶴千代をともに心の底から大切に思う情感。このバランスをひとつに決めて一貫させるのではなく、微妙に変化させながら、足利家の権威、栄御前に立ち向かっていく。
覚悟と気迫が素晴らしく、この十年後には、さらなる進境が期待されるほどの出来である。
八汐に歌六、沖の井に梅枝、松島に(尾上)右近、栄御前に魁春。「竹の間」が出ていないために、沖の井、松島のしどころが少なく残念であった。魁春はさすがの貫目で、ときに猛禽類のような鋭さを閃かせる。
続く「床下」では、海老蔵の仁木弾正と松緑の男之助が見せる。海老蔵はスッポンの出から、花道の引っ込みまで妖術を使う男の怪しさ、不気味さ、得体の知れなさを発散させる。
さらに「対決」では、梅玉の細川勝元がすぐれている。捌き役といっても、さわやかな弁舌ばかりを強調するのではない。海老蔵らの悪と、山名宗全(友右衛門)の贔屓振りに対して、毒舌でさりげなく追い込み、ついには肩衣を跳ねるまでもっていく手順にすぐれていた。市蔵の外記、右團次の民部。
大詰の「刃傷」は「対決」とは気を変えて、政岡による八汐の殺害と対になる。外記が仁木を指すのは、悪はおのずと滅んでいく、その天命がこの世にはあるのだという思想であろう。ここでも海老蔵が新たな境地を見せる。これまでは暴力性と野性が放縦にあって魅力的だったが、巨悪のありようがより内面化されて深いものに見えてきた。単なる野獣の暴走ではなく、悪が仁木弾正の身体に巣喰っているのだ。そう思わせるだけの深化があった。
切りは松緑と亀蔵による『浅草祭』を通す。『三社祭』だけでも肉体的に過酷な踊りだが、四変化を全力で踊り抜く。「石橋」でも奮闘している。亀蔵の踊りは、規矩正しく、正確に踊ろうとひたすら勤めていて好感が持てる。
三津五郎はこの真面目な踊りを見たとしたら、きっと喜ぶだろうな。そんなこと思いつつ歌舞伎座を後にした。

2017年5月15日月曜日

【閑話休題64】蜷川幸雄の一周忌と蜷川実花の「美しき日々」。遠い声、遠い部屋

 蜷川幸雄が亡くなって一年が過ぎた。
そのあいだ私は一冊の本を書いた。
『権力と孤独 演出家蜷川幸雄の時代』と題した一冊で、四月の終わりには書店に並んでいた。
この本を書こうと思ったのは、いくつかの理由がある。
なによりも自分自身の老いを感じているからで、体力、気力、そして記憶力も昔のようではない。時間が過ぎるにつれて、私の人生によってかけがえのない蜷川さんの舞台の記憶、個人的な交友の記憶も失われるだろうと思ったからだ。
前年に書いた勘三郎と三津五郎の場合は、まだしもメールのやりとりがある。なんらかのやり方で保存すれば、後世に残せる。けれど、蜷川とのやりとりは、面と向かってか、電話に限られていたので、あとかたもなく消え去ってしまう。そんな怖れがあった。
命日だからなあ。墓参りもどうかと思ったが、私は蜷川のお墓がどこにあるのか、お墓があるのかも知らない。月曜日には一周忌の会が、彩の国さいたま芸術劇場である。そのときに対話すればいい。そんな気持もあった。
ふっと思い立って、蜷川幸雄の長女、実花の写真展「うつくしき日々」に行った。御殿山の原美術館である。私は東京芸術大学に勤務しているから、実花さんは遠い存在ではない。美術の、そして写真の大スターで表現の幅を篠山紀信より更に広げるだけの度量を持っている。
二十年ほど前になるだろうか。
あまりにも前なので、いつだったかよく覚えていない。
蜷川幸雄に「実花さんの色彩は、蜷川さんを超えてますね」と雑談の席で言ったことがあった。
大きく笑ったのちに、
「前にね、蜷川先生いらっしゃいますかと電話がかかってきて、僕です、と応えると実花なんだよな」
と、自慢げに語っていたのを思い出した。  

「うつくしき日々」は、よく構築された展覧会だと思う。原美術館の狭い空間は扱いにくいと思うが、よく考えられている。そんな細部はまあ、いい。なにより、まず、実花による文字表現がある。文藝としての断章に、写真がその響きを受ける。私たちは言葉の残照のなかで、写真の具体と抽象のただなかで、思いをめぐらしている。
父、蜷川幸雄とは直接関係ない風景写真、とくに桜さえもが、日本的美意識の化身に思える。
咲く。散る。
人は必ず死ぬということ。私も死ぬ。あなたも死ぬ。それを見ているそなたも死ぬ。犬も死ぬよ、猫もね。人は次の季節まで生きられるかどうかを、つねに問われているということでもあった。人の定めにはあらがえない。
写真家は、生と死の峻厳なありようを知りつつ、シャッターを押した。
冷厳な関係性が、撮影者と被写体を結び、深い結びつきがあることの哀しさ、そしてあえていえば歓びが、「うつくしき日々」の連作を貫き、響き、揺らぎ、私たちをほんのすこし傾かせる。
傾きが頂点に達したときに、原美術館の窓に目を向けて、新しく生まれた庭のさかんな緑にこころを遊ばせると、ふたたび傾きが少し直線へと戻る。傾きは左から右へ、右から左へ、頭から足へ、足から頭へ。傾きの。
しっかりと気丈を持って世界へ挑め、と私は蜷川幸雄に教わったように思う。それは、日本的な美意識に溺れるなとの忠告でもあった。私はその教えにどれほど忠実であったかはわからない。今回書いた『権力と孤独 演出家蜷川幸雄の時代』も、日本にあること、その季節を甘受することを重く見て、目次を作った。私は世界への通路を見つけられずに終わるのだろう。
けれども、この写真展は明らかに異なっている。桜が散る哀しさに父の死を重ねあわせる悲嘆に終わっていない。
大切な一枚がある。横断歩道の前にふたりの人影がある。それは構図からすると撮影者とその同伴者に思える。間違いかもしれないが、蜷川実花とその長男は、死の刻限に閉じ込められているかに思える。写真という墓標が人間の前にそびえたっている。
けれど、今回の個展は、父の死を甘受し、甘い陶酔にいる境地にはない。偉大な表現者の死を受け入れ、父のいない時代へ踏み出しているのか。いや、踏み出そうとしているのだろうか。
その歩みをとどめる覚悟。
けれど、幼い子供の力をかりて、幼い子供の手をかりて、私たちはたちどまり、ふっと足や手に、そして全身に、なにか力が動き出しているのがわかる。
ほんの少しの動きが、世界を変えていく。



2017年4月29日土曜日

【劇評73】蜷川幸雄の遺産。『2017・待つ』の言葉と身体

 現代演劇劇評 平成二十九年四月 彩の国さいたま芸術劇場NINAGAWA STUDIO(大稽古場)

演出家蜷川幸雄の一周忌も近い。彩の国さいたま芸術劇場の大稽古場で、GEKISHA NINAGAWA STUDIOによる『2017・待つ』が上演されている。この『待つ』のシリーズは、一九八四年の夏に蜷川が立ち上げた若い世代を中心とする集団によってたびたび上演されている。俳優たちが自分たちで見つけてきたテキストを元にしたエチュードを再構成した作品である。テキストは戯曲とは限らない。小説やエッセイを含む場合もあった。いわば作家の言葉をいかに舞台化するか、俳優自身の能力が厳しく問われる戦場であった。オムニバスである以上、全体としての一貫性は整えにくいが、そのかわりに俳優にとっての言葉、俳優にとっての身体言語を考える契機となるので、私はこのシリーズを好んできた。
今回は、飯田邦博、井上尊晶、大石継太、岡田正、新川將人、清家栄一、妹尾正文、塚本幸男、野辺富三、堀文明の連名で「ぼくらの現在の演劇と根拠はここにあるのか?」を問うとパンフレットに記されている。上演順に演目を上げる。1&3、シェイクスピアの「マクベス」「ハムレット」「オセロー」。2、アラバールの「戦場のピクニック」。4、清水邦夫の「花飾りも帯もない氷山よ」。5、ウィリアム・サローヤンの「パパ・ユーアークレイジー」幸田文「終焉」小澤僥謳「俳優小澤栄太郎ー火宅の人」。6、前田司郎「逆に14歳」。7、田丸雅智「キャベツ」。8、レジナルド・ローズ「十二人の怒れる男」が次々と上演されていった。2にはさいたまゴールド・シアターやネクスト・シアターの俳優が、6にはさいたまネクストシアターの俳優も参加している。
上演をめぐる手法は、これまでの「待つ」と同じであっても、全体の印象は、まぎれもなく2017年の現在を表していた。1と3でいえば、シェイクスピアの悲劇の稽古は、常に携帯電話で中断される。2では、戦場はもはや観光地と化して、世界中をあまねく覆っている。6では、男と男の関係も、老いと方言がなくては、舞台の言葉としては成立がむずかしい。7は、キャベツが人間の脳にとってかわる奇想を元にした話だが、人工知能が人間の仕事を奪う現在が問われる。8のよく知られた戯曲も、独裁と排他主義によって危機に陥っている世界の現実を反映している。
それぞれにおもしろさがあったが、なにより言葉と身体を、舞台上に根が生えたように成立させる俳優を、蜷川は育てたのだと思った。「待つ」が頻繁に上演されていた1990年代のはじめと比べれば、当時から出ている俳優には若さはない。むきだしの野心もない。そのかわりに、言葉を踏みしめ、身体を舞台のために投企する、まっとうな俳優がいた。まぎれもなく蜷川幸雄の遺産が、ここにある。
待つとは、怠けることと同義ではない。時間は刻々と進み、私たちは老いへと一歩一歩歩みをすすめていく。時間にむけて挑んだ闘いは、果たして世界を変える力を持ち得たのか。厳しい問いを観客にも突きつける舞台となった。4月27日から30日。5月11日から14日まで。

2017年4月20日木曜日

【劇評72】永遠は憧れであり、残酷のまたの名。美輪明宏の『近代能楽集』

現代演劇劇評 平成二十九年四月 新国立劇場中劇場

老いの残酷は、ひとしく人間を襲う。けれど若い時代に美貌を誇った者ほど、容色の衰えは刑罰のように苛烈に襲ってくる。
三島由紀夫が能曲を新たに再創造した『近代能楽集』のなかから「葵上」と「卒塔婆小町」が二本立てで上演された。いずれも演出・美術・衣裳・音楽・振付、そして主演は美輪明宏で、稀代の表現者の美意識によって貫かれている。
それにしても、美とはいかに困難で複雑なものか。現代はシンプルなモダニズムがたやすい美の典型として多くの人間に好まれる。それに対して、悪趣味とそしられるのを怖れず、美とはつねに更新され、前衛的であるべきとの考えが一方に存在する。たとえば「葵上」では、琳派を思わせる巨大な裲襠とベッド、両脇にはサルバドール・ダリの溶けた時計をモチーフとしたオブジェやソファがある。電話台は裸体の彫刻の腹となっている。ここには腐りかけた階級だけが理解出来る美がある。大量生産品を拒み、決然と孤高であることを選んだ人間の屹立した姿がある。
しかし、「葵上」は、生霊の存在をまるごと信じられなくなった現代人にとっては理解できない構造を持っている。源氏物語の一挿話は、三島の出自たる階級とその言葉が崩壊したときに、決定的に滅びる運命にあったと今回の舞台を観てよくわかった。
また、「卒塔婆小町」は、若さの特権的な美を終戦直後の東京で占有した丸山(明宏)の神話によって胸を打つ。パンフレットに収められた輝かしいばかりの「男装の麗人」ぶり、それから九十九年には満たないまでも、遙かな時間が過ぎて、麗人はまぎれもなく老婆になった。それでもかつての舞台では、公園から鹿鳴館に場が替わったときに、舞台の中心でハチャトゥリアンの仮面舞踏会の華麗な音曲に乗って、中心で木村彰吾の詩人すなわち深草少将(少尉)と踊ることができた。けれど、今回は扇をかわりに舞わせるばかりで、美輪本人が踊る姿を見られない。その残酷が三島の物語に深く楔を打つ。
幕切れ、またしても老婆は贋の詩人にあって、幻想の恋愛を始めるのだろう。美と恋愛をめぐる永遠の連鎖。永遠は憧れであり、残酷のまたの名でもあった。五月三十日まで全国を巡演。

2017年4月19日水曜日

【劇評71】砕け散った鏡と内野聖陽のハムレット

現代演劇劇評 平成二十九年四月 東京芸術劇場プレイハウス

斬新きわまりない『ハムレット』(ジョン・ケアード演出、松岡和子訳)を観た。劇の冒頭、この作品でもっとも重要とされる台詞"Tobe, or not to be"に相当する訳「あるか、あらざるか、それが問題だ」が、ハムレット自身の独白ではなく、全体によって言葉になる。
この訳はこれまでの松岡和子訳「生きてとどまるか、消えてなくなるか、それが問題だ」とは異なっている。パンフレットを見ると翻訳の下に、上演台本として、演出家のジョン・ケアードと、今井麻緒子のクレジットがあり、台本を作成するために、既成の松岡訳(ちくま文庫版)そのままではなく、演出家の意を受けた変更が行われたとわかる。飜訳者にとっては、過酷な作業があったろうと想像がついた。
近現代のハムレット像は、胡桃の中の世界に閉じこもり、世界の苦悩をひとり引き受ける陰鬱な青年であった。しかし、デンマークの王子で、理不尽な運命に翻弄されたとしても、キリストのように世界全体を引き受けるような時代は明らかに去った。演出家の蜷川幸雄は『ハムレット』について、「彼は世界の中心でいられなくなってしまいつつある。主人公が時代を映す鏡だとしたら、その鏡は砕けきって、つなぎあわせない限り、ひとつの像を結べなくなっている」(『演出術』ちくま文庫)と語っている。
こうした認識をジョン・ケアードは、さらに発展させる。ハムレットの苦悩を分かち合う存在として親友のホレーショー(北村有起哉)がいるが、忠実な臣下であるよりは、あたかもハムレットの分身であるかのようだ。また、松岡自身がパンフレットに書いているが、ハムレットはラストシーンで、甲冑をかぶると新しい世代を代表するフォーティンブラスとなる。つまりは、ハムレットの内野聖陽は、この二つの役を兼ねるわけだ。
また、これ以降は、すでに作品をご覧になってからお読みいただきたいが、第四幕第五場で狂いのなかにあり、さらに溺死してしまうオフェーリアは、ハムレットとレアティーズの剣の試合を司るオズリックとなるのだ。狂気のさなかで死んだ若き女性は、銀髪の廷臣となってあたかも転生したかのようだ。つまりは貫地谷しほりは、オフェーリアとオズリックの二役を兼ねることになる。
おそらくは他に類例が少ないだろうこの二役によって、私という存在がいかに世界と向き合うかを考え詰めてきた近代的自我が、やすやすと分裂してしまう。ハムレットの中断された権力への意志は、フォーティンブラスとなってこの世界に生き延びる。誤りとはいえ愛するハムレットにわが父を殺された無念がこの世にまだ彷徨っていて、オズリックに乗り移ったとも考えることができる。
さらに悪であることに怯まない國村隼のクローディアス、自己の分裂をやすやすと受け入れる浅野ゆう子のガードルードの好演によって、ハムレットとオフェーリアは善で被害者、クローディアスとガートルードは悪で加害者といったような二分法が崩れ、四者の関係がつねに自在に動いていると実感させる。
さらにいえば、山口馬木也のローゼンクランツや今拓也のギルデンスターンも、単なる愚かな道化役ではない。クローディアスに忠実な小悪党ではあるが、才能や倫理感に恵まれないふたりでさえも、与えられた短い生を懸命に生き延びようしている。
つまりは、すべての登場人物によって、冒頭のように、「あるか、あらざるか、それが問題だ」と呟き続けているように思える。この問題から逃れられる人間などこの世界には存在しないのだと語っている。
書き落とせないのは、もっとも重要な準主役の壤晴彦のポローニアス、村井国夫の墓堀りの存在だろう。愚かさと賢さは表裏一体であり、いずれにしろこの世におさらばすれば、しゃれこうべとなって、冷たく湿った地の下に眠る他ないのだと語っている。その断念の深さ、生の残酷さが胸を打つ。
幕切れについて書く。未見でありながら、ここまで読み進めてしまった読者は、このあたりで中断をおすすめする。
『ハムレット』の幕切れは、ホレイショーをのぞく主要な人物がすべて死ぬことで知られている。死屍累々のなかで、ホレイショーは天を仰ぎ、救済を求めるように両の手を伸ばす。倒れていたクローディアスもガートルードも舞台奥の明るい彼方へと去って行く。フォーティンブラスは兜を脱ぎ捨てて、彼方へ去る。オズリックも銀髪を脱ぎ捨てて彼方に去る。舞台奥の彼方は死後の世界なのか。それとも人類の墓場なのかはわからない。暗闇のなかにひとり取り残されたホレーショーは能舞台でいえば橋懸かりに相当する舞台左袖へと伸びる通路を重い足取りで去って行く。
私にはこの光景は、地球の生物がすべて死に絶えた後に、神の意志で一人残された者に思えてならなかった。死ぬことはだれでも出来る。けれど死ぬことさえも許されない者がいる。テロと内戦のただなかにいる人類は、この警鐘に耳を澄まさなければならない。二十八日まで。

2017年4月18日火曜日

【劇評70】自らの狂いに知性的な大竹しのぶのフェードル

 現代演劇劇評 平成二十九年四月 シアターコクーン 

ラシーヌの『フェードル』をほぼ十五年ぶりに観た。前回、観たのはパリでの公演だったから、戯曲の言葉から立ち上がるこの悲劇を観るのは、ずいぶん久しぶりになる。
栗山民也演出の今回の『フェードル』は、装置といい、照明といい、衣裳といいスタッフワークは、フランス演劇の趣味を強く意識している。おそらくは独特な言葉の文化によって支えられた台詞劇を現代日本で成立させるためには、このような手続きが必要なのだろう。
さて、義理の息子への若き母の恋慕を主な筋とした『フェードル』は、歌舞伎の『摂州合邦辻』との類似がつとに言われる。けれど「合邦庵室」のみならず通しの上演と比較しても、ラシーヌの戯曲は緻密かつ異様なまでに理性的である。自らの狂いに対して知性的な人間を描いたといったらいいすぎだろうか。あるいはこう言いかえることも出来る。自らを狂わせるだけの知性をそなえている。
この至難な戯曲を成立させるためには、ハムレット役者に相当するフェードル役者がいなければならぬ。円熟の極みにある大竹しのぶがあっての上演であり、その感情の振幅は激しく、表情の豊かさは大海を思わせ、朗唱の技巧は冴え渡っている。イポリット(平岳大)への想いを募らせる前半、そしてエノーヌ(キムラ緑子)の奸計に乗せられいたものが、いざ夫のテゼ(今井清隆)が健在とわかり、すべてが破綻するとエノールを追い出す身勝手さ。可憐なアリシー(門脇麦)への残酷まで、すべてが圧倒的であった。
女優大竹しのぶは、蜷川幸雄演出の『欲望という名の電車』(二〇〇二年)、『エレクトラ』(二〇〇三年)、『メディア』(二〇〇五年)において、等身大の人間を超越した存在を演じる資質はすでに証明済みだったが、言語と身体の極限に位置するこの戯曲全体を圧するだけの力量に達しているとは驚嘆せざるを得ない。谷田歩のテラメーヌ、斉藤まりえのパノープ、藤井咲有里のイスメーヌ、いずれも品位をそなえて行儀のいい演技である。今年度を代表する舞台と早くも出会った。三十日まで。Bunkamuraシアターコクーン。

2017年4月4日火曜日

【劇評69】春宵一刻値千金。吉右衛門、菊之助の「吃又」

歌舞伎劇評 平成二十九年四月 歌舞伎座

春宵一刻値千金。
書き下ろしの仕事も一段落して、あとは刊行を待つばかり。今月からこのブログによる劇評もそろりそろりと再開します。

四月大歌舞伎
の昼の部は、鴈治郎、扇雀を中心に右團次、門之助、松也らと若手がこの春を言祝ぐ『醍醐の花見』。こうした俳優の個性をゆったりと楽しむ踊りには、理屈はない。ただ、春宵ならぬ春の昼をかけがえのないものとして味わう気持、さらにいえば、この一刻はもう二度と戻っては来ない無常観が現れればなおよい。思えば季節は、俳優のそして歌舞伎の人生の比喩ともなりえるのだった。

次いで『伊勢音頭恋寝刃』の半通し。おなじみの油屋に至るまでの三場。追駆け、地蔵前、二見ヶ浦は、特に前半、近年幹部となった橘三郎、橘太郎のチャリを含めた身体のこなしを楽しむ場となった。
染五郎の貢、猿之助の万野が初役。秀太郎が万次郎に回るなど清新な配役だが、幕が開いて二日目とあって、まだお互いの息を見定めている段階だったのだろう。染五郎は生真面目な御師が狂気へと至る過程を唐突な飛躍ではなく、辛抱の末ととらえて、順を追って埋めていこうとしている。
猿之助の万野には、ふっと六代目歌右衛門の影がよぎる。この役は単に狂言回しではなく、この廓を仕切る中心にある、いわば精神のようなものだと認識している。その万野の覚悟をにじませようとしているのが特長だ。代役で替わった京妙の千野とともに、表面はにこやかで美しい仲居たちの底意地の悪さがよく出ていた。料理人喜助は、松也。色気があるこの人を喜助とは驚いたが、それでも役にしてしまうところがこの人の進境。梅枝のお紺は魅力にふくらみがあって、いずれは『籠釣瓶花街酔醒』の八ッ橋へと進むだけの才質がそなわっていると確認できた。米吉のお岸に善良さがあり、このあたりは俳優の持ち味で大切にしたい。萬次郎のお鹿は腕のある人だから文句はない。顔の化粧は控えめでも十分説得力があるだけの力量がそなわっている。

昼の部の切りは、時代物の大物『熊谷陣屋』。幸四郎の熊谷は「出」から赤っ面で、従来の團十郎型に、芝翫型を取り入れる意欲にあふれている。刻々と心理の動きを描写するのではなく、ただ、自分の犯した罪科に身を苛んでいく男の鬱屈した精神がありのままに伝わってきた。本来、近代的な芸質の役者だが、今回時代物を新しいやり方で乗り越え、自分のものとしたい覚悟が伝わっていた。ただ、次回、手がけるのであれば、芝翫型をより積極に取り入れ、花道をひとりで引っ込む演出を疑うところにまで踏み込んでもらいたいと思った。相模は猿之助。夜の『奴道成寺』とともに大活躍だが、この熊谷の妻も沈潜して、ひたすら辛抱する役だけに年季がいる。
あるいは、猿之助の将来はこうした武家の女房の大役になるのではと思う。それだけに、順を追って手がけ、ひとつひとつの積み上げが大切になる。あせらず、迷わず、歌舞伎座を背負う大きな女方として大成してもらいたい。

夜の部の『傾城反魂香』は、吉右衛門の手に入った当り役だが、菊之助のおとくを得てこれまでとは一変した。本来、吉右衛門は実悪、しかも国崩しまでできる英雄役者だと思う。又平は一介の大津絵師であり、これまでは大きな身体を持てあまして、吃音に苦しむ小心な男を演じていた。今回は違う。英雄役者が又平を演じるのではない。ただひたすら絵師として、人間として大成したい心持ちの又平が、ごく自然に舞台にいるのだ。だからこそ、心持ちが若くなる。これから出世していきたい、土佐の名を許されれば本当にありがたい。ひたすらな願いと率直な野心が宿る又平であった。
人生には岐路がある。この時を逃せば、もう、未来はないのかもしれぬ。立身出世のとばくちに立った男の切実な真情が伝わってきた。すでにこの役を見事に演じてきた名優が、新たな気持ちで役の性根をとらえ直す。この青年のような若さは、いったいどこから生まれたものか。俳優とはいつなんどき、どんなきっかけをも生かして変化していく。そんな力を持つのだと実感した。

菊之助のおとくは初役。女方としてきっちりと裏の仕事ができること。生来、恵まれた声を生かしていること。いずれもいいが、おとく役の少しくどい灰汁のような性格は、この俳優にはないものだろう。そのかわりに又平の絵師としての才能を微塵も疑わない率直さ、まっすぐさがあってふたりの関係が清涼なものとなった。しゃべらない、しゃべりすぎのお互いの欠点を補い合って夫婦関係が成り立っているのでない。まず又平の才能への信頼、そしておとくの真摯なありかたに又平はたよっている。この情愛がよいかたちで出た。

さて、お半、長兵衛の『帯屋』。ただひたすらうつむいて耐えている辛抱立役の長兵衛を藤十郎が勤める。染五郎の儀兵衛、扇雀のお絹、長吉、お半二役の壱太郎、隠居繁斎の寿治郎、義父おとせの吉弥と脇が見事に揃って、上方狂言らしい言葉の綾と綾がからみあう執拗な劇として成立している。
とりわけ嫌味な義弟を演じる染五郎、屈辱のなかでも家を守り通そうとする女房の扇雀が飛び抜けていい。
お半が書き置きを戸口に残して花道を去る。下駄にのったその手紙を見つけた長兵衛はあかりのある家内に戻るがその階段で藤十郎が転ぶアクシデントがあった。その場では無事なんともなかったが、藤十郎の年齢を考えるとこの件りをやや簡略化する手立てもあるのではないか。

最後は猿之助の『奴道成寺』。まったく過不足のない出来で、才質を見せつける。娘道成寺以上に、三ッ面を使うなど趣向の芝居なので、全体のおおらかな雰囲気を忘れないのが肝要だ。細部がよくできているからこそ、全体が取り落とされる危険がときにある。幕切れ、金の鱗をまとって大袈裟にならずにさらっと終えたのは粋であった。(三日所見。二十六日まで)

2017年3月29日水曜日

【閑話休題63】虚ろで浮遊したような感触。

 書き下ろしを終えた後は、必ずといっていいほど空虚な感じに心身がとらわれてしまう。これまでのような張り詰めた毎日は、もうないのだ。開放感があってもよさそうだが、何か虚ろで、浮遊したような感触にとらわれてしまっている。
「権力と孤独 演出家蜷川幸雄の時代」は、表紙や帯のデザインも決まった。帯の背表紙側には、あとがきの冒頭部分が抜いてある。

修羅の人だったと思う。
私が知るのは稽古場の蜷川さんに限られるけれども、みずから修羅場を引き寄せ、喜び、怒り、哀しみ、楽しみ、人生のすべてをその場にいる人々と共にした。まぎれもない成功者ではあったが、その意味で蜷川幸雄の舞台人としての人生は、決して安楽なものではなかった。絶望のなかで、かすかに希望を見いだす舞台に全力を投じて一生を終えた。

本来は、野田秀樹の『パンドラの鐘』を演出した章の冒頭のために書いた。若い友人のアドバイスに従って、この部分をあとがきに持ってくることにした。はじめに書いたあとがきは、寂しく暗い空気に包まれていたが、改稿によって、かすかな希望が見える文章になった。
もう、原稿は私の手を離れて編集者のもとにある。あるいは三校で頁調整の仕事があるかもしれないが、大勢には影響がない。あとは見本本が出来るのをのんびり待つばかり。4月のはじめからは、新学期がはじまり、勤務先の大学の仕事に追われることになる。しばらくは、この空虚感を味わっていたいと思っている。

2017年3月15日水曜日

【閑話休題62】『権力と孤独』最終コーナを回る。

これが最後の書き下ろしになるかもしれない。そんな危機感を持って全力で直しを行う。今日、あとがきの初校が出たけれども、これも大幅に改稿して書き足す。

書き下ろしに慣れると、日頃の短い原稿がたやすく思えてくる。10枚や20枚の原稿なら、軽々とできるような錯覚に陥る。短い原稿には短いなりの難しさがあるのを忘れそうになる。危険だなと思う。
明日は、再校を読んだ校正者から、再度の赤が入ったゲラが戻ってくる。さらに全体を見直すことになるけれど、ほぼ再構築は終わって、あとは細部を確認するだけだ。最終的な戻しは23日。私はこの再校で手を離す。三校はとるけれども、編集者のNさんにお任せする。

ベテランの俳優から「ようやく芝居が少しはできるようになったと思ったら、今度は台詞覚えが悪くなった」と冗談交じりの警句を聞いたのを思い出した。

以前は、本を出すごとに3キロから5キロ痩せた。もう、そんなに痩せたら持たないので、しっかり食べて寝るようにしています。

何度か書き下ろしを経験して、ようやくペースのつかみ方や全体の構築の仕方が身についたなと思った頃には、気力体力に衰えが目立ってくる。

甘いといわれればそれまでだけれど、書き下ろしが続いたので、今度の仕事が終わったら少し休んで、ジムやプールに通って体力を取り戻さなければと思う。

2017年3月12日日曜日

【お知らせ】今月は劇評をお休みする予定です。

すでにお知らせしていますが、現在『権力と孤独 演出家蜷川幸雄の時代』(岩波書店 4月21日発売予定)の再校を抱えています。今月末までは、
その最後の詰めにほとんどの時間を費やしています。誤字脱字や事実誤認の訂正ももちろんですが、この再校が私にとっては校了となるために慎重になっています。
本当にちょっとした言い回しを変えていくだけで、章ごとの印象が変わり、全体にも響いていくのがよくわかります。
このところ書きたい舞台はあるのですが、劇評が滞っているのはそのためです。

劇場でも声を変えてくださる方が増えたのは、このブログに写真を掲載したからでしょうか。
いずれにしろ、半年続いた書き下ろしの大詰めです。ここで緩みのないように校正刷りと向かいあっていきます。
どうぞ、ご理解くださいますように。


また、さまざまな方から、このブログの「お問い合わせフォーム」を通じてお言葉をいただき励まされています。
ありがとうございました。

2017年3月5日日曜日

【閑話休題61】十代目坂東三津五郎三回忌追善

 今月の歌舞伎座「三月大歌舞伎」には、十世坂東三津五郎三回忌追善と副題のついた「どんつく」が出た。
この踊りには想い出がある。十代目がはじめてこの演目を歌舞伎座で出したのは、平成十五年八月。親方は歌昇(現・又五郎)、白酒売は勘九郎(故・十八代目勘三郎)大工は橋之助(現・芝翫)藝者は福助、田舎者は弥十郎、門礼者は獅童、太鼓打は勘太郎(現・勘九郎)子守は七之助、町娘は孝太郎、若旦那は扇雀という顔ぶれである。「現」とか「故」とか書かなければならないような過去になってしまった。
十代目のどんつくは顔ではなく、全身から愛嬌があふれ出る踊りで申し分がなかった。ただ、雑誌の演劇界に書いた劇評には、奥に座っているときに、踊りの家元として厳しい目を出演者に注いでいるように見えた、とかそのような意味の評を書いた。それほど十代目は坂東の家の踊りに関して、厳しい判断基準を持っていたと思う。こうした大勢で踊るときは、遠慮もあるだろう。何から何まで差配するわけにはいかない。特に角兵衛の巳之助が出演していたとき、険しい目になったのを覚えている。
その巳之助が三度目にして、はじめて、父が踊ったどんつくを勤めた。もちろん、まだまだではあるが、大きな山に取りついた、麓から登りはじめ、四合目、いや五合目までたどりついた。こんなにも努力を重ねている。胸があつくなった。
平成十五年に戻る。劇評が出て、しばらくして、十代目と会う機会があった。
「そんなに厳しい目をしていた?」
たぶん、思い当たる節はあったのだろうと思う。私に少し気を遣いつつ、にこにこしながら訊ねた。どんなふうに弁解というか、説明したのかは、もう忘れてしまった。
ああ、三回忌か。今年の命日は、新しい著書の初校ゲラ戻しと入試の業務が重なって、墓参りにも行けなかった。家で少し静かに、十代目三津五郎を聞き書きした本を取り出して読んだ。ありがたかったな、感謝の気持ちが湧いてきた。今日の舞台も、巳之助の努力と懸命さをどんなによろこんでいるだろう。そんなことを考えた。
先月の歌舞伎座では見知らぬご婦人に「三津五郎さんの言葉を残してくださってありがとうございました」と懇切な挨拶を受けた。今日は、十代目が好きだった赤坂の店の女性とあって少しお話をした。まだ、劇場のあたりをにこにこしながら歩いているような気がしてならなかった。

2017年2月8日水曜日

【劇評68】『足跡姫』阿国と猿若勘三郎の魂

現代演劇劇評 平成二十九年一月 東京芸術劇場プレイハウス

『足跡姫』(野田秀樹作・演出)を観た。
野田が歌舞伎界に進出した『野田版 研辰の討たれ』が二重写しになる作品となった。『野田版 研辰の討たれ』は、いうまでなく、十八代目中村勘三郎、十代目坂東三津五郎との共同作業で生まれた新作歌舞伎である。敵討ちを大義とする武家社会のなかで、刀の研ぎ屋あがりの辰次(勘三郎)が、誤って家老(三津五郎)を殺してしまったために、子息ふたり(染五郎、勘太郎・現勘九郎)に追われるが、ついには満開の紅葉の下で捉えられる。自らが切られるための刀を研ぎつつ辰次はいう。
「お研ぎします。お研ぎします。研げといえば、お研ぎします。根は研屋、武士になろうなどと思った私が痴れ者、研いでおります、研ぎまする、研いだ刀で討たれまする。散るのは春の桜ばかりじゃねえや、枯れた紅葉もこれが終わりと、おのれの終わりと知りながら散っていきます、散りまする。生きて生きて、まあどう生きたかはともかくも、それでも生きた緑の葉っぱが、枯れて真っ赤な紅葉に変わり、あの樹の上から、このどうということのない地面までの、その僅かな旅路を、潔くもなく散っていく、まだまだ生きてえ、死にたくねえ、生きてえ、生きてえ、散りたくねえ、と思って散った紅葉の方がどれだけ多くござんしょう」
一度は助かったと思った辰次は、引き返してきたふたりに惨殺される。その死体に一葉の紅葉がふりかかり、カヴァレリア・ルスティカーナが、琴、胡弓、尺八で流れる。
初演は二〇〇一年八月だから、当時勘九郎を名乗っていた勘三郎は四十六歳。自分が死ぬなどとは遠い未来と思っていたに違いない。
野田秀樹は『足跡姫』宣伝のためのチラシで「作品は、中村勘三郎へのオマージュです。」とはっきり書き、「もちろん作品の中に、勘三郎や三津五郎が出てくるわけではありませんが、「肉体の芸術にささげた彼ら」のそばに、わずかの間ですが、いることが出来た人間として、その「思い」を作品にしてみようと思っています」としている。
『足跡姫』を二度観て、この「思い」があふれる舞台に強く胸を動かされた。
劇のしつらえは、野田作品にはめずらしく、時間が直線的に流れ、空間をまたぎこすこともない。ふたつの時空がパラレルに叙述されるのではなく、過去から現在へと流れていく。ならば、平易かというと、そんなことはない。将軍の前で舞台を披露したいと願う「三、四代目出雲お国」(宮沢りえ)と、狂言作者をめざす阿国の弟「淋しがりサルワカ」(妻夫木聡)が、はじめ「死体」と思われた「売れない小説家」(古田新太)と出会うことで、舞台で起こる事件の虚実が曖昧になっていく。象徴的なのは4度に傾斜した「開帳場」の舞台には、盆が切られているばかりか、セリを思わせる穴が上手、下手にしつらえられているところだ。
一六〇三年頃に成立した阿国の女歌舞伎踊りが、数々の禁制を受けながら、一六二四年に猿若勘三郎(初代中村勘三郎)が江戸中橋に櫓をあげるまで。初期の阿国は当時のかぶき者といわれた若者が茶屋に通う姿を男装して扮したという。また「猿若」と呼ばれる道化役の滑稽な藝もからんだという。また、のちにはかぶき者として名を馳せ、斬り殺された名古屋山三郎の亡霊を登場させるたともいう。野田は資料の乏しいこの期間に何があったのかを奔放な想像力で埋めようとしている。
執拗に問われているのは、舞台で人が死ぬ演技だ。舞台では殺しの場面が古今東西、頻繁に上演されるが事故がないかぎり、役者が死ぬことはない。幕が閉じれば、立ち上がって楽屋に去って行くと誰もが知っている。この虚の上に成り立っている俳優と観客の共犯関係があるならば、本当に死んでしまった勘三郎や三津五郎の死も、幕さえ引いてしまえば、なかったことになるのではないか。ひょっこり生き返ってくるのではないか。そんな切ない夢想が全体を覆っている。
歴史上の阿国の踊りもその初期はストリップまがいの色気にあふれた群舞だったろう。けれど図像に残されている異形の踊りが、演劇の体裁をとるためには「筋」が必要だ。傾城買からはじまったとされるが、淋しがりサルワカが苦悶するのは、この「筋」であり、物語が成立したとたん、またしても虚実が入り乱れる構造になっている。
こうした構造をさらに攪拌するのが、穴のなかから現れた謎の「戯けもの」(佐藤隆太)であり、阿国の座を狙う「踊り子ヤワハダ」(鈴木杏)であり、一座を率いる吉原あがりの「万歳三唱太夫」(池谷のぶえ)なのであった。佐藤の野性、鈴木の豊潤な色気、池谷の迫力とよい間。いずれもすぐれている。
とりわけ、「伊達の十役人」(中村扇雀)は、大岡越前を思わせる好色な役人を中心にさまざまな役人を演じ分ける。この演じ分けにも劇作上の必然性があるわけではなく、物語の単純化を妨げるための混乱を作りだす役割を負っている。野田自身は、「腑分けもの」という死体の腑分けを望む男を演じているが、この人物も作品世界が一方向に安定するのを嫌って、舞台の空気をかき混ぜ続けるのだった。
おそらくは病院で管につながれた勘三郎を見守り、ふとしたうわごとを聞き、奇跡が起こってくれと願い続けた人間野田秀樹の錯綜した思いを、できるだけ整理整頓を行わず、謎に包まれた阿国とその一座の行方に託したのが『足跡姫』であった。
親しい友人ふたりが、六十歳にも満たない年齢でこの世を去った。ともに芝居を作ってきた野田秀樹にとってどれほどの喪失感だったことか。決して取り戻すことのできない「肉体の芸術」は、新しい肉体で再び舞台を埋め尽くすしかない。そんな決意が籠もっていた。『足跡姫』を感傷的に観るのはたやすいが、喪失感のなかに、一筋の希望を持ち、舞台芸術の連続、舞台に立つ役者の魂を信じる姿勢が際立っていた。
勘三郎と三津五郎のよい供養となった。などと真面目にいうと「しゃらくせえ」と野田は混ぜっ返すだろう。東京芸術劇場の切り穴は、世界の向こう側ではなく、東銀座の歌舞伎座花道のスッポンと地下で繋がっている。その通路をくぐって、粋でいなせな二人が、ふっと劇場に姿を現すような気がした。
三月十二日まで。東京芸術劇場。

2017年2月4日土曜日

【劇評67】三代目中村勘太郎、二代目中村長三郎の幼いふたりの門出。

歌舞伎劇評 平成二十九年2月 歌舞伎座
二月歌舞伎座は、菊五郎を座頭とした大一座。猿若祭二月大歌舞伎と題して、初代猿若勘三郎以来の中村屋の隆盛を言祝ぐ。
なんといっても見どころは、夜の部の『門出二人桃太郎』。三代目中村勘太郎、二代目中村長三郎の幼いふたりの襲名を、幹部がめでたく盛り上げる。ふたりの一挙一動が注目の的になる。染五郎の犬、松緑の猿、菊之助の雉も大活躍。ふたりの父、勘九郎と伯父、七之助の優しい気配が胸を打つ。祖父、十八代目中村勘三郎が見たらどれほど喜ぶことか。こうした感興がわき起こるのも歌舞伎見物の楽しみである。
今月は昼の部と夜の部にそれぞれ一本、江戸の風俗劇が出た。
昼の部の『四千両小判梅葉』は、黙阿弥の作でもそれほど頻繁には上演されない。けれども捨てがたい魅力がある。菊五郎が演じる冨蔵が店を持たず、おでん屋に身をやつしている風情や昔の仲間が博奕に負けてたかりにくるあたりに、いつの世もいる悪党たちの絆が見えてくる。團蔵の生馬の眼八がいかにも憎々しい。絆ばかりではなく、憎悪もまた悪党たちのあいだには欠かせない関係性なのだ。その複雑な関係性を、まるで儀式のように見せてくれるのが、第三幕第一場、伝馬町西大牢の場で、秩序立った人の配置と、貢ぎ物や折檻をみているうちに、これは現在の会社組織でも、あまり変わらないのではと皮肉な気持になる。菊五郎の台詞回しは、さらさらとして作為を消し去っている。藝境がさらに淡々と澄み渡っているのがよくわかった。
夜の部は『梅ごよみ』。近年は、玉三郎、勘三郎によって演じられてきた仇吉と米八を、今回は菊之助と勘九郎が演じる。羽織芸者といわれて粋でいなせな深川の花柳界、染五郎の丹次郎をめぐった恋の達引きが縦糸。さらには御家の重宝をめぐる忠義が横糸。練りに練った仇吉と米八のやりとりを、基本を守りつつ、おもしろく見せて、肩がこらない。染五郎は女性からはだれからも言い寄られる色男を演じてなるほどと納得させる。菊之助は、仇っぽい芸者は本役ではないだろうが、すっきりとした色気がある。勘九郎は父譲りの口跡で、裏切られた女のくやしさを見せる。ああ、こんなこともあるよね、と観客をうなずかせる。木村錦花の才筆が、春を迎える喜ばしい空気とともに味わえる。二十六日まで。

【お知らせ】蜷川幸雄評伝を書き終えました。

 しばらくブログの更新が滞っておりました。
昨年の九月から、一昨日まで書き下ろしに取り組んでおりました。『権力と孤独 演出家蜷川幸雄の時代』(岩波書店)です。亡くなった演劇人について書くのは、昨年二月に文春新書から出した『天才と名人 中村勘三郎と坂東三津五郎』以来です。亡くなってから間もない近しい人物について一冊書くのは、精神的にも肉体的にも厳しいものがあります。言い方が適切かどうか分かりませんが、常にその方々が頭の隅にいる、棲みついているような感触といったらいいでしょうか。ブログの更新には、気持が回らなくなり、書き下ろしに専念しておりました。
おかげさまで四百字詰め原稿用紙で、四百四十枚の文章ができあがり、入稿を済ませたところです。
まだ、あとがきは書いていないので、ここであとがきに似た文章を書くのは差し控えます。
また、今年は現代演劇、歌舞伎いずれにも偏ることなく自由な評論活動を続けていきたいと思います。気ままな更新になると思いますが、どうぞご愛読くださいますように。

2017年1月9日月曜日

【劇評66】絶対はない。

 歌舞伎劇評 平成二十九年一月 歌舞伎座
新春の歌舞伎座。大阪を含めて五座開いているが、さすがに大立者を結集し、新しい春を言祝ぐ雰囲気に包まれていた。
昼の部は真山青果の『将軍江戸を去る』から始まる。染五郎の徳川慶喜、愛之助の山岡鉄太郎の新たな顔合わせだが、様式よりは心理に傾く新作歌舞伎で、このふたりによって、青果のこの戯曲が、武士社会の階級をともなうぎりぎりの変動をも描いた舞台だとよくわかった。愛之助の山岡は、第一場の上野彰義隊の場。黒門を押し入ろうとする鉄太郎と、とどめようとする彰義隊新頭取の天野八郎(歌昇)のぎりぎりのやりとりが面白い。歌昇の若さが切実さと悔しさを滲ませる。山岡は旧体制の権力者で義兄にあたる伊勢守(又五郎)に救われて寺内に入る。青果にとっては、将軍慶喜を説き伏せる山岡もまた、時代を動かす人間を気取ってはいるが、旧体制の権威の元にある人間にすぎないのだ。そのテーゼは、眼目の大慈院対決の場でよくわかる。徳川慶喜と山岡鉄太郎、水戸学をめぐって、勤王、尊皇の語句論議をするが、これは言葉の争いに見えて、武士階級の終焉を、いかにかりそめの論理で納めていくかの言語ゲームとなっている。染五郎、愛之助は、できるかぎり台詞を歌わずに、幕府の終焉ではなく、武士階級の終焉と新しい権力体制の誕生を受け入れざるを得ない人間たちのドラマとしている。
従って、将軍が千住大橋を渡って、江戸を去る場も、情緒的に流れない。新しい朝が来た。そして、新しい時代へと動いていく。役割を失ったプレイヤーは、この場所を去るしかない。そんな諦念が滲んでいた。
続く『大津絵道成寺』は、愛之助にとってはめずらしい大曲の舞踊。『京鹿子娘道成寺』を趣向で大津絵の世界に移している。外方(所化)と唐子の登場が新鮮に見える。
変化物で五役を踊りきるが、やはりいなせな船頭が本役。本来女方ではない愛之助が、藤娘の姿でまったく不自然を感じさせないのはむずかしいことだ。背中がどうしても立役に見える瞬間がある。また、鈴太鼓の鳴し方が正確ではないのが気になる。種之助の犬が健闘。染五郎は『矢の根』の五郎で、押し戻しを勤め、正月らしい曽我物の情趣を加えた。
さらに吉右衛門の十兵衛、歌六の平作による『沼津』が、思ったほどには、ふるわない。今、絶頂の大立者だから、すべてがよいわけではない。ひとりが絶対ではなく、顔合わせと演目によって、その出来は決まる。
吉右衛門の十兵衛はすでに手に入っていて悪いはずはないが、平作を歌六が生真面目なままに造形していて、頼まれた荷を依頼した十兵衛に背負わせてしまう愛嬌に乏しい。確かに老いの辛さ、厳しさは伝わってくるが、それだけに、全編を通して、押し出された老いに、周囲が屈服していく劇になってしまっている。老年が多くなった時代状況によって、この芝居も見え方が観客にとって、さらに深刻になっていくのだろう。注意が必要だ。
花道で、ころんだ傷に大事の薬をつける大切な場面がある。ここには達者な吉右衛門と歌六にリアリティがある。けれど、後段に向かって、伏線を敷いている場面だけに、「筋売り」ではなく、ふたりの交感、根本には、洒脱さがあってほしい。
雀右衛門のお米は、襲名を経て、役者ぶりが一回り大きくなった。出は相変わらず可憐だが、刻々と移り変わる局面で、こころのうちを変化させていく。また、受けの芝居が、芯の役者の邪魔になるどころか、相手役を助ける力ともなっている。盗みの試みが発覚して、父に「堪忍してください」とすがりつくところの芝居も大仰にならず、説得力があった。
夜の部は、幸四郎の井伊直弼と玉三郎のお静の方、雀右衛門の昌子の方による『井伊大老』である。北條秀司による季節の移り変わりと、天候によって日々を送る人間の哀しさ、辛さを繊細に書いた新作歌舞伎。
この顔ぶれに不足はないが、幸四郎、玉三郎がニュアンスを出すために、ちょっとした笑い声やしぐさの入れごとで芝居を運んでいるのが気になる。あまり過度にすぎるとふたりの真情が見えにくくなり、彦根での貧しい生活を思う気持を信じられなくなる。
ふたりの衣裳も問題。とてもいい趣味だと思うが、大老の家とはいえ、華美に傾いてはいないか。
富十郎の遺児、鷹之資が上『越後獅子』を踊り、真摯でひたむきな踊りを見せる。下は、玉三郎の美意識に貫かれた『傾城』。
切りは染五郎の松浦公、愛之助の大高源吾による『松浦の太鼓』。年の暮れの淋しさと念願が成就した歓びが、年末から正月への時の移り変わりと重なり、普遍性を持つ。染五郎は、癇性を持つが、実は包容力もある松浦の殿様を、いささか粘着質に描く。句を詠み上げるときに、俳諧という芸への愛着が見えるのは、出色でこの人ならではの台詞の調子のよさが全体を支えている。また、愛之助の大高源吾は、大仰な人物に作りすぎていないのがかえっていい。忠臣蔵の物語のなかでは、大石内蔵助らと比べると、脇を守る心がけのよさがある。
なんといっても『松浦の太鼓』のみどころは、狂言回しとなる宝井其角の出来であろう。左團次は年齢とともに成熟を重ねて、この思慮深い好人物をよく演じている。無駄をよくはぶいて、力まない。それこそ俳諧の奥義に達した人物の境地だろうと思う。二十六日まで。

2017年1月8日日曜日

【雑感1】演劇界回顧

雑誌「悲劇喜劇」に、2016年演劇界の回顧を書く。演劇界の中心が、つねに揺れ動き、変化しているのが分かる。特に昨年は蜷川幸雄の死があったので、とりわけそのような感想を持った。

2017年1月6日金曜日

【閑話休題60】新年のご挨拶

新年のご挨拶をいたします。

みなさま、どうぞ、ご健勝で、こころ安らかにお過ごしくださいますように。

ご報告がございます。
昨年、9月から執筆をはじめてきた『権力と孤独 演出家蜷川幸雄の時代』(岩波書店)の、
第一稿が昨年、12月の終わりに完成しました。
これからは、この稿を改めつつ、入稿をめざしていきます。

書き下ろしに着手してから、このブログの更新も滞っていましたが、
お許しくださいますようお願いします。