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2017年4月29日土曜日

【劇評73】蜷川幸雄の遺産。『2017・待つ』の言葉と身体

 現代演劇劇評 平成二十九年四月 彩の国さいたま芸術劇場NINAGAWA STUDIO(大稽古場)

演出家蜷川幸雄の一周忌も近い。彩の国さいたま芸術劇場の大稽古場で、GEKISHA NINAGAWA STUDIOによる『2017・待つ』が上演されている。この『待つ』のシリーズは、一九八四年の夏に蜷川が立ち上げた若い世代を中心とする集団によってたびたび上演されている。俳優たちが自分たちで見つけてきたテキストを元にしたエチュードを再構成した作品である。テキストは戯曲とは限らない。小説やエッセイを含む場合もあった。いわば作家の言葉をいかに舞台化するか、俳優自身の能力が厳しく問われる戦場であった。オムニバスである以上、全体としての一貫性は整えにくいが、そのかわりに俳優にとっての言葉、俳優にとっての身体言語を考える契機となるので、私はこのシリーズを好んできた。
今回は、飯田邦博、井上尊晶、大石継太、岡田正、新川將人、清家栄一、妹尾正文、塚本幸男、野辺富三、堀文明の連名で「ぼくらの現在の演劇と根拠はここにあるのか?」を問うとパンフレットに記されている。上演順に演目を上げる。1&3、シェイクスピアの「マクベス」「ハムレット」「オセロー」。2、アラバールの「戦場のピクニック」。4、清水邦夫の「花飾りも帯もない氷山よ」。5、ウィリアム・サローヤンの「パパ・ユーアークレイジー」幸田文「終焉」小澤僥謳「俳優小澤栄太郎ー火宅の人」。6、前田司郎「逆に14歳」。7、田丸雅智「キャベツ」。8、レジナルド・ローズ「十二人の怒れる男」が次々と上演されていった。2にはさいたまゴールド・シアターやネクスト・シアターの俳優が、6にはさいたまネクストシアターの俳優も参加している。
上演をめぐる手法は、これまでの「待つ」と同じであっても、全体の印象は、まぎれもなく2017年の現在を表していた。1と3でいえば、シェイクスピアの悲劇の稽古は、常に携帯電話で中断される。2では、戦場はもはや観光地と化して、世界中をあまねく覆っている。6では、男と男の関係も、老いと方言がなくては、舞台の言葉としては成立がむずかしい。7は、キャベツが人間の脳にとってかわる奇想を元にした話だが、人工知能が人間の仕事を奪う現在が問われる。8のよく知られた戯曲も、独裁と排他主義によって危機に陥っている世界の現実を反映している。
それぞれにおもしろさがあったが、なにより言葉と身体を、舞台上に根が生えたように成立させる俳優を、蜷川は育てたのだと思った。「待つ」が頻繁に上演されていた1990年代のはじめと比べれば、当時から出ている俳優には若さはない。むきだしの野心もない。そのかわりに、言葉を踏みしめ、身体を舞台のために投企する、まっとうな俳優がいた。まぎれもなく蜷川幸雄の遺産が、ここにある。
待つとは、怠けることと同義ではない。時間は刻々と進み、私たちは老いへと一歩一歩歩みをすすめていく。時間にむけて挑んだ闘いは、果たして世界を変える力を持ち得たのか。厳しい問いを観客にも突きつける舞台となった。4月27日から30日。5月11日から14日まで。