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2017年4月18日火曜日

【劇評70】自らの狂いに知性的な大竹しのぶのフェードル

 現代演劇劇評 平成二十九年四月 シアターコクーン 

ラシーヌの『フェードル』をほぼ十五年ぶりに観た。前回、観たのはパリでの公演だったから、戯曲の言葉から立ち上がるこの悲劇を観るのは、ずいぶん久しぶりになる。
栗山民也演出の今回の『フェードル』は、装置といい、照明といい、衣裳といいスタッフワークは、フランス演劇の趣味を強く意識している。おそらくは独特な言葉の文化によって支えられた台詞劇を現代日本で成立させるためには、このような手続きが必要なのだろう。
さて、義理の息子への若き母の恋慕を主な筋とした『フェードル』は、歌舞伎の『摂州合邦辻』との類似がつとに言われる。けれど「合邦庵室」のみならず通しの上演と比較しても、ラシーヌの戯曲は緻密かつ異様なまでに理性的である。自らの狂いに対して知性的な人間を描いたといったらいいすぎだろうか。あるいはこう言いかえることも出来る。自らを狂わせるだけの知性をそなえている。
この至難な戯曲を成立させるためには、ハムレット役者に相当するフェードル役者がいなければならぬ。円熟の極みにある大竹しのぶがあっての上演であり、その感情の振幅は激しく、表情の豊かさは大海を思わせ、朗唱の技巧は冴え渡っている。イポリット(平岳大)への想いを募らせる前半、そしてエノーヌ(キムラ緑子)の奸計に乗せられいたものが、いざ夫のテゼ(今井清隆)が健在とわかり、すべてが破綻するとエノールを追い出す身勝手さ。可憐なアリシー(門脇麦)への残酷まで、すべてが圧倒的であった。
女優大竹しのぶは、蜷川幸雄演出の『欲望という名の電車』(二〇〇二年)、『エレクトラ』(二〇〇三年)、『メディア』(二〇〇五年)において、等身大の人間を超越した存在を演じる資質はすでに証明済みだったが、言語と身体の極限に位置するこの戯曲全体を圧するだけの力量に達しているとは驚嘆せざるを得ない。谷田歩のテラメーヌ、斉藤まりえのパノープ、藤井咲有里のイスメーヌ、いずれも品位をそなえて行儀のいい演技である。今年度を代表する舞台と早くも出会った。三十日まで。Bunkamuraシアターコクーン。