長谷部浩ホームページ

長谷部浩ホームページ

2017年4月19日水曜日

【劇評71】砕け散った鏡と内野聖陽のハムレット

現代演劇劇評 平成二十九年四月 東京芸術劇場プレイハウス

斬新きわまりない『ハムレット』(ジョン・ケアード演出、松岡和子訳)を観た。劇の冒頭、この作品でもっとも重要とされる台詞"Tobe, or not to be"に相当する訳「あるか、あらざるか、それが問題だ」が、ハムレット自身の独白ではなく、全体によって言葉になる。
この訳はこれまでの松岡和子訳「生きてとどまるか、消えてなくなるか、それが問題だ」とは異なっている。パンフレットを見ると翻訳の下に、上演台本として、演出家のジョン・ケアードと、今井麻緒子のクレジットがあり、台本を作成するために、既成の松岡訳(ちくま文庫版)そのままではなく、演出家の意を受けた変更が行われたとわかる。飜訳者にとっては、過酷な作業があったろうと想像がついた。
近現代のハムレット像は、胡桃の中の世界に閉じこもり、世界の苦悩をひとり引き受ける陰鬱な青年であった。しかし、デンマークの王子で、理不尽な運命に翻弄されたとしても、キリストのように世界全体を引き受けるような時代は明らかに去った。演出家の蜷川幸雄は『ハムレット』について、「彼は世界の中心でいられなくなってしまいつつある。主人公が時代を映す鏡だとしたら、その鏡は砕けきって、つなぎあわせない限り、ひとつの像を結べなくなっている」(『演出術』ちくま文庫)と語っている。
こうした認識をジョン・ケアードは、さらに発展させる。ハムレットの苦悩を分かち合う存在として親友のホレーショー(北村有起哉)がいるが、忠実な臣下であるよりは、あたかもハムレットの分身であるかのようだ。また、松岡自身がパンフレットに書いているが、ハムレットはラストシーンで、甲冑をかぶると新しい世代を代表するフォーティンブラスとなる。つまりは、ハムレットの内野聖陽は、この二つの役を兼ねるわけだ。
また、これ以降は、すでに作品をご覧になってからお読みいただきたいが、第四幕第五場で狂いのなかにあり、さらに溺死してしまうオフェーリアは、ハムレットとレアティーズの剣の試合を司るオズリックとなるのだ。狂気のさなかで死んだ若き女性は、銀髪の廷臣となってあたかも転生したかのようだ。つまりは貫地谷しほりは、オフェーリアとオズリックの二役を兼ねることになる。
おそらくは他に類例が少ないだろうこの二役によって、私という存在がいかに世界と向き合うかを考え詰めてきた近代的自我が、やすやすと分裂してしまう。ハムレットの中断された権力への意志は、フォーティンブラスとなってこの世界に生き延びる。誤りとはいえ愛するハムレットにわが父を殺された無念がこの世にまだ彷徨っていて、オズリックに乗り移ったとも考えることができる。
さらに悪であることに怯まない國村隼のクローディアス、自己の分裂をやすやすと受け入れる浅野ゆう子のガードルードの好演によって、ハムレットとオフェーリアは善で被害者、クローディアスとガートルードは悪で加害者といったような二分法が崩れ、四者の関係がつねに自在に動いていると実感させる。
さらにいえば、山口馬木也のローゼンクランツや今拓也のギルデンスターンも、単なる愚かな道化役ではない。クローディアスに忠実な小悪党ではあるが、才能や倫理感に恵まれないふたりでさえも、与えられた短い生を懸命に生き延びようしている。
つまりは、すべての登場人物によって、冒頭のように、「あるか、あらざるか、それが問題だ」と呟き続けているように思える。この問題から逃れられる人間などこの世界には存在しないのだと語っている。
書き落とせないのは、もっとも重要な準主役の壤晴彦のポローニアス、村井国夫の墓堀りの存在だろう。愚かさと賢さは表裏一体であり、いずれにしろこの世におさらばすれば、しゃれこうべとなって、冷たく湿った地の下に眠る他ないのだと語っている。その断念の深さ、生の残酷さが胸を打つ。
幕切れについて書く。未見でありながら、ここまで読み進めてしまった読者は、このあたりで中断をおすすめする。
『ハムレット』の幕切れは、ホレイショーをのぞく主要な人物がすべて死ぬことで知られている。死屍累々のなかで、ホレイショーは天を仰ぎ、救済を求めるように両の手を伸ばす。倒れていたクローディアスもガートルードも舞台奥の明るい彼方へと去って行く。フォーティンブラスは兜を脱ぎ捨てて、彼方へ去る。オズリックも銀髪を脱ぎ捨てて彼方に去る。舞台奥の彼方は死後の世界なのか。それとも人類の墓場なのかはわからない。暗闇のなかにひとり取り残されたホレーショーは能舞台でいえば橋懸かりに相当する舞台左袖へと伸びる通路を重い足取りで去って行く。
私にはこの光景は、地球の生物がすべて死に絶えた後に、神の意志で一人残された者に思えてならなかった。死ぬことはだれでも出来る。けれど死ぬことさえも許されない者がいる。テロと内戦のただなかにいる人類は、この警鐘に耳を澄まさなければならない。二十八日まで。