長谷部浩ホームページ

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2017年5月28日日曜日

【劇評78】安全な食をめぐって。イキウメの新作

現代演劇劇評 平成二十九年五月 東京芸術劇場シアターイースト 

現代演劇の地図は、蜷川幸雄の死によって大きく変わりつつある。そのなかで、野田秀樹やケラリーノ・サンドロヴィチとともに重要な位置を占めるのは、前川知大とイキウメである。奇想にとんだ劇作、役者の身体を生かした演出、個性的で観客への訴求力のある俳優。現在最高の水準を保つ劇団のひとつである。なかでも俳優たちが、演技に誇りと自信を持っている姿を観るとすがすがしい気持になる。
新作『天の敵』(前川知大作・演出)は、二〇一○年に初演されたオムニバス『図書館的人生VOL.3 食べもの連鎖』に納められた「人生という、死に至る病に効果あり」を長編に改稿した舞台である。初演からこの魅力的な題材は、群を抜いていた。人類が誕生してから現在まで、決して手にすることができなかった不老不死の可能性を問い詰めている。
ジャーナリストの寺泊(安井順平)は、妻の優子(太田緑ロランス)に紹介されて料理研究家の橋本(浜田信也)の教室を訪ねる。菜食主義に至ったその来歴を聞くうちに寺泊は、橋本の数奇な物語に引き込まれていく。
本来ならば当年一二二歳になる橋本は、戦前に独創的な食事療法を提唱した医師、長谷川卯太郎その人だった。前川の作は巧妙な作劇を仕掛けている。この不老不死の物語を聞く寺泊は、現在難病をかかえており、子供も幼い。この奇妙な食事療法を実行すれば、自らの死が回避できるかも知れない。そんな寺泊の切実な動機によって、信じがたい物語が説得力を持つ。
『太陽』でも日の光が主題のひとつとなっている。太陽を忌避しなければならぬ宿命となった人間の屈折もまた胸を打つ。
現在を過去を交錯させる前川の劇作、小道具を巧みに用いて過去が現在へとなだれこんでいく前川の演出。いずれも「騙り」の技術に裏打ちされている。
ストーリーテラーによる奇譚に終わらないのは、なぜか。食事は人間の生命の根幹にあり、安全で危険の少ない食材は、富によって独占されかねない。いや、現在でも寡占されているのではないか。そんな問いが頭をもたげてくるからだ。他者を犠牲にすることによって、自らの生存をはかる。そんな人類の残酷な歴史までもが、この食をめぐる物語には凝縮されている。小野ゆり子が巧みな演技を見せる。明晰な村岡希美の台詞回し。六月四日まで。

【劇評77】取り残された白人たち 松岡昌宏の感情

現代演劇劇評 平成二十九年五月 紀伊國屋ホール 

アメリカの闇は深い。
ひとつにはできないのは承知しているけれども、マンハッタンとその周辺。地方中都市とその周辺には、抜き差し難い裂け目があって、人間たちを蟻食地獄へ呑み込んでいる。
J.D.ヴァンスの『ビルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち』(光文社)を読んで、オハイオ州の「ラストベルト(さびついた工業地帯)」の物語は、衰えたといえども世界経済に君臨しているはずのアメリカが、いかに困難を抱えているかを教えてくれた。
続いてジャン・パトリック・シャンリーの『ダニーと紺碧の海』(鈴木小百合翻訳 藤田俊太郎演出)を観た。ここにはニューヨーク州の北端にあり、マンハッタンからほど近いブロンクスの八十年代が描かれている。プアーホワイトに属するダニー(松岡昌宏)は、トラックの運転手だが、会社や同僚とトラブルを起こし、昼間から飲んだくれている。カフェで偶然出会ったロバータ(土井ケイト)は、離婚歴があり小さな子供を抱えているが、家庭内で深刻なトラブルを抱えている。怒りに取り憑かれた男と罪悪感にとらわれて深い悲しみをたたえた女が、一夜をともにする。
ここには、生まれながらに、社会と適応する条件に恵まれなかった人間がいる。いかにあがいても、この土地から出ていくのはむずかしい。夢想のなかでしか快適な生活は送りようもない。社会や他人への不満、自己嫌悪と厭世観の強固な檻のなかに、蠢いているほかはない。
演出の藤田俊太郎は、この二人芝居を単調な葛藤の劇にはしない。それぞれのキャラクターを決めて、対決と決裂、そして和解を描くだけでは終わらせない。ふたりがこのブロンクスのリングのなかで、刻々と間合いを変え、力関係を秤にかけ、役割を入れ換えながら、まさしく人間らしくあろうと生きていく姿を描き出す。
思い出深い場面がある。一夜の恋、一夜の夢、将来の期待を手にしたかに思えるふたりは、ひとつのベッドで眠る。ベッドサイドには、白いドレスを着た人形が置かれている。明かりが落ちる。眠りのとき、休戦のときがきた。そのとき人形は上からの光に照らし出される。まるで、ふたりの夢がひとつになって、幸せな結婚生活が約束されているかに見える。
けれども、現実はそれほど甘くはない。翌朝ふたりは、よりシビアな闘いへと進んで行く。松岡は凶暴な獣が、いかに愛情に餓えているかを、叩きつけるような感情とともに表現する。土井は人生をあきらめかけた女性が、いかに絶望し、根こそぎ希望をはぎ取れているかをあからさまにする。ふたりは俳優として自らをさらし、他人を演じることで、自らを発見する。その勇気と熱意と忍耐が観客を打つ。
私が観た回は初日近かった。音楽の使い方、ふたりの位置関係など、いささか甘い演出が目立った。ふたりに明るい未来が待っているかのような大団円であった。けれどと私は立ち止まる。二日間の闘いと和解は、これからの生活の序章にすぎないのではないか。大団円の向う側に、決して楽観できない未来がほのみえた。紀伊國屋ホール二十一日まで。兵庫県文化センター二十八日まで。

2017年5月27日土曜日

【劇評76】音羽屋坂東の輝かしい春

歌舞伎劇評 平成二十九年五月 歌舞伎座夜の部

仕事が立て込んで、歌舞伎座の夜の部を観るのが千龝楽の前日になってしまった。一部の演目をのぞくと、初日と千龝楽の前日に観たことになる。このあいだ、つらつらと考えていたのは、平成二十七年の二月に亡くなった坂東三津五郎の存在についてであった。十代目三津五郎は、先代三津五郎とともに、菊五郎劇団で育っている。今月の團菊祭は、亡き梅幸と羽左衛門の追善だから、もし、健在であれば、一座に加わっていたろう。
こんなことを繰り言のように話すのは、老人めいていやなのだが、芯をとったとしたらどんな役を出しただろうとか、今月出た演目では、あの役、この役が当り役だったなあとか、もし教えを乞われたなら、この役あたりは三津五郎が教えただろうなと、どうしても思わざるをえない。せんない思いがふつふつと浮かび上がってくるのは、歌舞伎の世代交代が、否応もなく迫っているからなのだと思う。
夜の部は『対面』から、初代楽善の小林朝比奈、九代目彦三郎の曽我五郎、三代目(坂東)亀蔵の近江小藤太、そして彦三郎の長男六代目亀三郎が初舞台で亀丸を勤める舞台である。工藤は菊五郎、十郎は時蔵、大磯の虎に萬次郎、化粧坂少将に梅枝、鬼王新左衛門に権十郎と劇団幹部、そして近い親類で固めた配役となった。初日では、五郎の持つ力感が力余って四方に飛び散っていたが、さすがに千龝楽近くなると、カドカドのキマリが定まり、方向性も定まってきて、よい五郎になった。なにより荒事の一役であるから、「怒」の一字を忘れず、エネルギーを惜しまず、全力で勤めている。歌舞伎で芯を取ることの大切さがよくわかる。自信と充実が新・彦三郎にみなぎっていた。
もとより菊五郎は本来、十郎の役者だが、工藤に回る。座頭として当然の配役だが、威厳とともに、優しさがほの見える工藤になった。時蔵の十郎は、女方だけに優しく柔らかく、弟五郎の荒々しい振るまいを見守っている。初舞台の亀三郎は、しっかりとせりふをいって、舞台終わりの口上でも、姿勢がよく場のタイミングを読んでいて頼もしい。四人の襲名で、音羽屋坂東の輝かしい春となった。
続く『伽羅先代萩』は、「竹の間」を欠き「御殿」から。「飯炊き」が出ない。
菊之助が、政岡を勤めるのは、二度目。新橋演舞場で平成二十年だったから、ほぼ十年前。若さ故の勢いがあり、我が子を嵐のような熱情の末に、結果として犠牲にしてしまった哀しみがあった。今回はよりスケールが大きく、すべてをわかっているにもかかわらず、悲劇に巻き込まれていく。我が子千松に、大事があったときは「な」と言葉にはせずにいい含めるときの切なさ。女性官僚であるゆえに、我が子大事では生きられぬぎりぎりの状況を描線太く描き出した。お主のためお家のために、職務を果たさなければならぬ責任感と、我が子千松と若君鶴千代をともに心の底から大切に思う情感。このバランスをひとつに決めて一貫させるのではなく、微妙に変化させながら、足利家の権威、栄御前に立ち向かっていく。
覚悟と気迫が素晴らしく、この十年後には、さらなる進境が期待されるほどの出来である。
八汐に歌六、沖の井に梅枝、松島に(尾上)右近、栄御前に魁春。「竹の間」が出ていないために、沖の井、松島のしどころが少なく残念であった。魁春はさすがの貫目で、ときに猛禽類のような鋭さを閃かせる。
続く「床下」では、海老蔵の仁木弾正と松緑の男之助が見せる。海老蔵はスッポンの出から、花道の引っ込みまで妖術を使う男の怪しさ、不気味さ、得体の知れなさを発散させる。
さらに「対決」では、梅玉の細川勝元がすぐれている。捌き役といっても、さわやかな弁舌ばかりを強調するのではない。海老蔵らの悪と、山名宗全(友右衛門)の贔屓振りに対して、毒舌でさりげなく追い込み、ついには肩衣を跳ねるまでもっていく手順にすぐれていた。市蔵の外記、右團次の民部。
大詰の「刃傷」は「対決」とは気を変えて、政岡による八汐の殺害と対になる。外記が仁木を指すのは、悪はおのずと滅んでいく、その天命がこの世にはあるのだという思想であろう。ここでも海老蔵が新たな境地を見せる。これまでは暴力性と野性が放縦にあって魅力的だったが、巨悪のありようがより内面化されて深いものに見えてきた。単なる野獣の暴走ではなく、悪が仁木弾正の身体に巣喰っているのだ。そう思わせるだけの深化があった。
切りは松緑と亀蔵による『浅草祭』を通す。『三社祭』だけでも肉体的に過酷な踊りだが、四変化を全力で踊り抜く。「石橋」でも奮闘している。亀蔵の踊りは、規矩正しく、正確に踊ろうとひたすら勤めていて好感が持てる。
三津五郎はこの真面目な踊りを見たとしたら、きっと喜ぶだろうな。そんなこと思いつつ歌舞伎座を後にした。

2017年5月15日月曜日

【閑話休題64】蜷川幸雄の一周忌と蜷川実花の「美しき日々」。遠い声、遠い部屋

 蜷川幸雄が亡くなって一年が過ぎた。
そのあいだ私は一冊の本を書いた。
『権力と孤独 演出家蜷川幸雄の時代』と題した一冊で、四月の終わりには書店に並んでいた。
この本を書こうと思ったのは、いくつかの理由がある。
なによりも自分自身の老いを感じているからで、体力、気力、そして記憶力も昔のようではない。時間が過ぎるにつれて、私の人生によってかけがえのない蜷川さんの舞台の記憶、個人的な交友の記憶も失われるだろうと思ったからだ。
前年に書いた勘三郎と三津五郎の場合は、まだしもメールのやりとりがある。なんらかのやり方で保存すれば、後世に残せる。けれど、蜷川とのやりとりは、面と向かってか、電話に限られていたので、あとかたもなく消え去ってしまう。そんな怖れがあった。
命日だからなあ。墓参りもどうかと思ったが、私は蜷川のお墓がどこにあるのか、お墓があるのかも知らない。月曜日には一周忌の会が、彩の国さいたま芸術劇場である。そのときに対話すればいい。そんな気持もあった。
ふっと思い立って、蜷川幸雄の長女、実花の写真展「うつくしき日々」に行った。御殿山の原美術館である。私は東京芸術大学に勤務しているから、実花さんは遠い存在ではない。美術の、そして写真の大スターで表現の幅を篠山紀信より更に広げるだけの度量を持っている。
二十年ほど前になるだろうか。
あまりにも前なので、いつだったかよく覚えていない。
蜷川幸雄に「実花さんの色彩は、蜷川さんを超えてますね」と雑談の席で言ったことがあった。
大きく笑ったのちに、
「前にね、蜷川先生いらっしゃいますかと電話がかかってきて、僕です、と応えると実花なんだよな」
と、自慢げに語っていたのを思い出した。  

「うつくしき日々」は、よく構築された展覧会だと思う。原美術館の狭い空間は扱いにくいと思うが、よく考えられている。そんな細部はまあ、いい。なにより、まず、実花による文字表現がある。文藝としての断章に、写真がその響きを受ける。私たちは言葉の残照のなかで、写真の具体と抽象のただなかで、思いをめぐらしている。
父、蜷川幸雄とは直接関係ない風景写真、とくに桜さえもが、日本的美意識の化身に思える。
咲く。散る。
人は必ず死ぬということ。私も死ぬ。あなたも死ぬ。それを見ているそなたも死ぬ。犬も死ぬよ、猫もね。人は次の季節まで生きられるかどうかを、つねに問われているということでもあった。人の定めにはあらがえない。
写真家は、生と死の峻厳なありようを知りつつ、シャッターを押した。
冷厳な関係性が、撮影者と被写体を結び、深い結びつきがあることの哀しさ、そしてあえていえば歓びが、「うつくしき日々」の連作を貫き、響き、揺らぎ、私たちをほんのすこし傾かせる。
傾きが頂点に達したときに、原美術館の窓に目を向けて、新しく生まれた庭のさかんな緑にこころを遊ばせると、ふたたび傾きが少し直線へと戻る。傾きは左から右へ、右から左へ、頭から足へ、足から頭へ。傾きの。
しっかりと気丈を持って世界へ挑め、と私は蜷川幸雄に教わったように思う。それは、日本的な美意識に溺れるなとの忠告でもあった。私はその教えにどれほど忠実であったかはわからない。今回書いた『権力と孤独 演出家蜷川幸雄の時代』も、日本にあること、その季節を甘受することを重く見て、目次を作った。私は世界への通路を見つけられずに終わるのだろう。
けれども、この写真展は明らかに異なっている。桜が散る哀しさに父の死を重ねあわせる悲嘆に終わっていない。
大切な一枚がある。横断歩道の前にふたりの人影がある。それは構図からすると撮影者とその同伴者に思える。間違いかもしれないが、蜷川実花とその長男は、死の刻限に閉じ込められているかに思える。写真という墓標が人間の前にそびえたっている。
けれど、今回の個展は、父の死を甘受し、甘い陶酔にいる境地にはない。偉大な表現者の死を受け入れ、父のいない時代へ踏み出しているのか。いや、踏み出そうとしているのだろうか。
その歩みをとどめる覚悟。
けれど、幼い子供の力をかりて、幼い子供の手をかりて、私たちはたちどまり、ふっと足や手に、そして全身に、なにか力が動き出しているのがわかる。
ほんの少しの動きが、世界を変えていく。