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2017年8月15日火曜日

【劇評82】玉三郎写しの『刺青奇偶』

 歌舞伎劇評 平成二十九年八月 歌舞伎座

八月納涼歌舞伎の第一部、第二部は、高い青空が見えたとはいいがたい。

まずは長谷川伸の『刺青奇偶』(坂東玉三郎・石川耕士演出)は、玉三郎の目が光る。冒頭の酌婦、お仲(七之助)は、風情、口跡、所作いずれも玉三郎写しで、七之助が行儀良く初役を勤めている。冒頭、舞台の照明が暗いこともあって、玉三郎がお仲を勤めているのかと目を疑った。それほど忠実な写しだと思った。

中車の半太郎が、また、すぐれている。歌舞伎のなかでの居場所が次第に定まってきたが、慢心が見えない。

人生にとことん失望した女が、それでも惚れてしまういなせな様子がよく序幕で、ふたりの不安定な関係をしっかりと見せる。これは七之助、中車の柄と仁をよく踏まえた演出の力によるものだ。

長谷川伸の劇作は、ときに前半と後半で、主人公二人の立場が逆転する。はすっぱだった酌婦が、病を得て亭主の将来を案じる。博奕打ちだった夫は、足を洗ったが、どうにもあがきがつかない。ふたりの思いがどうにも噛み合わないところに、劇作の巧みさがある。中車は後半、決して捨て鉢にならずに、未来へと一縷の望みを捨てない。細いながらも一本芯が通っていて説得力を持つ。

錦吾の半太郎父、喜兵衛。梅花の母おさくが、ふっと人生のむなしさを漂わせてよい。これほど貫目が出たのかと感心したのは、染五郎の政五郎。たしかに衣裳のなかに「肉」はいれているのだろうが、そんな外見など必要としないだけの落ち着きと貫禄が備わってきた。来年の襲名に向けて、一歩、一歩、努力を重ねているのだろう。

続いて踊りは、勘太郎の『玉兎』と、猿之助、勘九郞の『団子売』。勘太郎は踊りも得意とされる家に生まれただけに修業中の身。これからが楽しみだ。また、猿之助、勘九郞は、踊りの巧さに溺れず、風俗を写す役者の踊りに徹している。

第二部は、岡本綺堂の『修禅寺物語』(市川猿翁監修)。初世坂東好太郎の三十七回忌、二世板東吉弥の十三回忌。父と兄の追善を出せる役者となって、彌十郎渾身の舞台となった。いわゆる芸道物である。彌十郎の夜叉王は、はじめ気難しい面打ちと見せたところが、最後は、姉娘桂(猿之助)の断末魔を絵に写し取るだけの覚悟のある芸能者へと変わっていく。はじめから決意のある人物とするか、それとも、桂が頼朝(勘九郞)に望まれて家を出て、しかも頼朝が闇討ちを受け、桂が手傷を負い戻ってくる過程で、芸能者としての覚悟を強くしたのか。彌十郎は、全体を一貫させており、この役者、持ち前の人の良さを見せまいと勤めている。そのため、自分を律するに厳しい夜叉王となった。ときに自分の芸に対する自負や末娘楓(新悟)に対する愛情を強く出してもよい。

秀調の修禅寺の僧、巳之助の楓婿の春彦が、役をよくつかまえて、劇を支えている。

続いて『東海道中膝栗毛 歌舞伎座捕物帖』(十返舎一九原作、杉原邦生構成、戸部和久脚本、市川猿之助脚本・演出)。ラスベガスへ染五郎の弥次郎兵衛、猿之助の喜多八が旅をした昨年の納涼歌舞伎を前作として、趣向本意の芝居を立ち上げた。(片岡)亀蔵の役名に「戸板雅楽之助」とあるように、劇評家戸板康二の一連の名探偵雅楽物を意識した推理劇仕立て。名探偵コナンなども意識しているのだろう。見どころは、沢潟屋の芸、『義経千本桜』の『四の切』をトリックとしているところで、舞台裏の仕掛を見せているところが観客を惹きつける。

また、金太郎の伊月梵太郎と團子の五代政之助が、弥次郎兵衛、喜多八と対になっているとこも、ご趣向。

かつて『野田版 研辰の討たれ』で、十八代目中村勘三郎が、染五郎と勘九郞(当時・勘太郎)を「坊ちゃん一号、二号」と呼んで大笑いさせたのを思い出した。『四の切』に対する言及とともに、こうした役者の血縁をチャリとするのはさじ加減がむずかしい。二十七日まで。