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2017年12月1日金曜日

【劇評91】溝端淳平、忍成修吾、温水洋一。三人が言葉で格闘する『管理人』

 
世田谷パブリックシアター『管理人』。撮影:細野晋司

現代演劇劇評 平成二十九年十一月 シアタートラム
ハロルド・ピンターの『管理人』(徐賀世子翻訳)は、時代を超えてこれほどまでに現在を照らし出すのかと思った。丁寧で緻密な森新太郎の演出があってのことだろう。
登場人物は男性三人。舞台奥の窓に収斂するパースの部屋に、ガラクタが山のように積み上げられている。アストン(忍成修吾)は、ホームレスのような身なりのデーヴィス(温水洋一)を街から拾ってくる。意外にもアストンはこの部屋にデーヴィスを受け入れる。やがて現れたアストンの弟ミック(溝端淳平)は、怪しい気配のデーヴィスを脅す。やがてこの建物の管理人にならないかと、デーウィスは兄と弟それぞれから誘いを受ける。ところが管理人になるためにはデーヴィスがシッドカップに預けたという身分証明書が必要だ。けれど、デーヴィスはこの部屋から動こうとしない。ぼろぼろの靴や悪い天気のせいで行けないのだという。
不条理演劇の範疇にある戯曲だが、なぜデーヴィスをアストンが受け入れたのか、それがまず大きな謎として横たわっている。やがて、アストンのこれまでの来し方が明らかになり、アストンとミックのあいだにも、この家をどうするか意見の食い違いがあると明らかになる。
今回の演出を面白く思った。それは、それぞれの登場人物を何かのメタファーとはしないところだ。もちろん演出するからには、刻々と移り変わっていく関係の変化を描かないわけにはいかない。それにもかかわらず、三人を職業や性格によって図式のなかに収めようとしないのである。
ここにあるのは、今、その瞬間をやりすごすために長期的な展望を持たず、ただ、感情のおもむくままに言動を繰り出していく哀れな人間たちのせめぎ合いだ。物置小屋を作る、家をリフォームする、身分証明書を取り返す。いずれも夢ではあるが、決して手の届かない夢想に過ぎない。部屋にあるがらくたが刻々と崩れ、腐っていくように、この部屋に監禁されている三人もまた、逃れがたい崩壊へと歩んでいる。
デーヴィスの老いは深く、アストンは病をかかえ、ミックはきまぐれで粗暴である。三人の闇は深くなるばかりで、出口は見えない。
ミックの溝端淳平は、今この瞬間を決して信じられない人間の苛立ちをよくあらわしている。アストンの忍成修吾は、ちょこちょこした歩き方で、いつもプラグの修理をしているが、何を考えているのかわからない不気味さをたたえている。三人三様の演技がぶつかりあい素晴らしい火花が散るが、その鍵となるのは、登場から終幕まで、生き抜くことの困難に押しつぶされた人間の浅ましさを全身で表現した温水洋一だろう。もとより温水は舞台俳優だが、そのキャリアのなかでも代表作というべき演技だった。
それにしても、一九六○年に上演された『管理人』がこれほどの現在性を持つのはなぜか。行く先が見えず、貧困と汚辱に充ち、没落していく英国のかつての姿が、今の日本と重なるからだろうか。森演出はこうした現在性もあえて強調せず、ただ、寒さに震えて明日の展望を描けない人間の辛さ、あさましさを描いて見せた。「これが私たちの今だ」と、私たち自身が発見するのを待っているかのように。十二月十七日まで。