長谷部浩ホームページ

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2018年1月22日月曜日

【閑話休題76】ブログの劇評が100本を超えました。

平成二十七年の一月に思い立ってはじめた劇評ブログですが、三年をかけて100本を数えました。
備忘録のようなものといってしまうには、肩の力が入っている劇評もなかにはあります。
歌舞伎劇評と現代演劇劇評を同じ筆者が書いているのが、取り柄といえば取り柄だと思っています。

今日の東京は大雪。今期の最後から二回目のゼミを開く予定だったのですが、休講に。
そのため思いがけない時間が出来て、ケラリーノ・サンドロヴィッチについての論考、
『近松心中物語』と『黒蜴蜓』の劇評、今年の三月にラオスのビェンチャンで開く展覧会の挨拶文と
ずいぶん原稿の仕事がはかどりました。たまには外へ出かけない日を作らないといけませんね。

これからも本ブログをどうぞよろしくお願いします。

【劇評101】デヴィッド・ルヴォー演出のスタイリッシュな論争劇。三島由紀夫の『黒蜥蜴』

 現代演劇劇評 平成三十年一月 日生劇場

三島由紀夫の『黒蜥蜴』は、スタイリッシュな論争劇である。
代表作とされる『サド侯爵夫人』や『我が友ヒットラー』や『近代能楽集』のいくつかの作品と比較すると、甘い誘惑に充ちている。ところが筋立てを楽しむエンターテインメントとあなどると、手ひどいしっぺがえしをくらう。デヴィッド・ルヴォーの演出は、緑川夫人=黒蜥蜴と明智小五郎の言葉での論争を丁寧にたどっている。言葉で相手をやりこめ、叩きのめし、押しつぶす。その営みは、恋愛のプロセスとよく似ている。そんな解釈を根底に置いて、微動だにせず、全編を精緻な論争劇とした。
もとより三島戯曲の根幹には、言葉と論理がある。けれどもエンターテインメントとしては、登場人物たちの輝かしい肉体とその存在を彩る衣裳が不可欠だろう。もちろん美を際立たせる照明も重要である。緑川夫人=黒蜥蜴を演じた中谷美紀は、成熟期にある女優のカリスマに充ちている。そればかりではない。特権的な美をそなえた人間の誇りと弱さをよく表現している。初舞台『猟銃』で舞台女優としての才能を示したが、この『黒蜥蜴』でも、三島の幻影を体現するだけの力量を示した。
明智小五郎を演じた井上芳雄は、ロジックの隘路のなかで緩慢な自殺を繰り返すインテリの孤独を体現している。
相楽樹の早苗は可憐だが、ブルジョアに生まれた令嬢の無神経さを見せる。たかお鷹は、成金のいやらしさを誇張してみせる。酔ってランニング姿になるあたりは絶好調だ。そして自意識の堂堂巡りに陥った青年、雨宮潤一の絶望を成河がよく演じている。朝海ひかるの家政婦ひなは、黒蜴蜓に対する屈折までも感じさせる。総じて、俳優陣の役の掘り下げが徹底していて、デヴィッド・ルヴォーの戯曲解読と相まって高い水準の舞台となった。偽物にこそ、真の熱情がこもる。嫉妬によってしか恋の内実は確かめられない。まさしく三島独自の世界観がここにはある。
乱反射する天窓、海の表情を写す映像、マストを使った航海の描写、スタッフワークも充実している。美術は伊藤雅子、照明は西川園代、衣裳は前田文子、音楽は江草啓太、音響は長野朋美、映像は栗山聡之、振付は柳本雅寛。スタッフの能力を引き出し、総合するのが演出の仕事だと今更ながら思い知らされた。二十八日まで。二月一日から五日まで大阪公演。

【劇評100】無数の風車が、人間の生の営みを語る。『近松心中物語』

 現代演劇劇評 平成三十年一月 新国立劇場中劇場

『近松心中物語』は、私にとって忘れがたい作品である。蜷川幸雄の演出によって、一千回を越える上演が繰り返された。七九年の初演の舞台を帝国劇場で観たときの衝撃は、今も私のなかに深く刻まれている。
一九九九年ごろ、『演出術』をまとめるために蜷川の稽古場へ通った。『近松心中物語』についても詳しく話を聞いたが、秋元松代の戯曲のなかでも、もっともよく知られる本作について蜷川の言葉は、意外に冷ややかであった。第一稿の一幕を取材先のモスクワではじめて読んだときの感想である。
「カーテンを開けて窓越しに猛烈な吹雪を見ながら台本を読んだんですけれども、正直いって、「まいったなあ」と思いました。今まで本当のことをしゃべっていませんけど、「薄っぺらい戯曲だなあ、演出できないなあ」と思いました。まだ一幕だけですけれども、奥行のない平板な戯曲に思えたんです」
この平板な戯曲を立体的にするために蜷川は、演出術の限りを尽くした。その詳細については、『演出術』(ちくま文庫)にあたっていただければうれしい。視覚的、音楽的な効果については今更語るまでもないが、蜷川が演出によってこの戯曲に与えた最大の往昔は、廓に生きる名も無い人々のたくましくも悲しい生き方を描き出したところにある。鳥の視点から廓を眺め、虫の視点から人間をみつめたのである。
今回、いのうえひでのりが『近松心中物語』を演出すると聞いて、なるほどなと思った。ダイナミックなスペクタクルを演出する力量、辺境や底辺に生きる人間に対するこだわりは、蜷川と共通した面がある。なるほど適切な起用だと膝を打った。
その期待は裏切られなかった。堤真一の忠兵衛、宮沢りえの梅川、池田成志の与兵衛、小池栄子のお亀。いずれも瑞々しい人間像を描き出している。かつて、蜷川版の『近松心中物語』を演じてきた俳優は、世代によっては歌舞伎の『封印切』や『新口村』への意識が強かった。大なり小なり歌舞伎への尊敬と対抗心があった。今回の上演では、ありふれた人間のありふれたメロドラマと割り切って演出されており、心中する人々を崇高なものとして美化するそぶりがない。特に与兵衛、お亀はコミックのように誇張された表情、身振りに徹していて、人間の愚かさ、哀しさを直接的に描いている。
いのうえのステージングは、装置をダイナミックに動かし、無数の風車を自在に回して、人間の生の営みを象徴的に表している。この風車のひとつひとつが、はかない人生と思うと胸がこみあげてきた。
演技については歌舞伎へのコンプレックスとは無縁だが、演出手法にいては浪布やぶっかえりなどを巧みに取り入れている。蜷川の精神は受け継ぐが、コピーには終わらない堂々たる舞台となった。型の継承に終わらぬ演出は蜷川が喜ぶだろうと私は思う。二月十八日まで。

2018年1月14日日曜日

【劇評99】新春の国立、菊五郎劇団の娯楽作を楽しむ。

歌舞伎劇評 平成三十年一月 国立劇場 

新春の国立劇場、菊五郎劇団の公演は、独特のカラーで観客の期待に応えてきた。
 近年では、平成十八年『曾我梅菊念力弦(そがきょうだいおもいのはりゆみ)』や平成二十八年『小春穏沖津白浪(こはるなぎおきつしらなみ)』などが思い出深い。久しく上演されない演目を、復活狂言という名目で大胆なテキストレジをほどこす。新春らしい愉しい演出をほどこす。菊五郎らしく時事ネタを大胆に取り入れた場面を作る。観客は期待にたがわぬ理屈抜きの初芝居を楽しんできた。
 今回もその路線を踏襲しているが、少し趣が異なる。『世界花小栗判官(せかいのはなおぐりはんがん』は、語り物のおおもとにある説経節にある小栗判官の伝説を取り入れた「小栗物」である。近年では、猿翁の『當世流小栗判官』や『オグリ』が記憶に新しい。菊五郎も、『児雷也豪傑譚話』では、俊徳丸、浅香姫のいざり車のくだりを入れ子にしている。
 今回は、通し狂言としての上演で、「鎌倉扇ヶ谷横山館奥庭の場」での名馬にして気性の荒い「鬼鹿毛」を小栗判官兼氏が乗りこなす件がまず見物だ。膳所の四郎蔵(坂東亀蔵)がすすめる碁盤乗りの曲馬もなんなくこなしてみせる。「鬼鹿毛」が芯となっての大立ち回りもなかなか楽しめる。
 菊之助の颯爽たる貴公子ぶりも、第三幕では暗転する。青墓宿では、流浪の果てに足利の重宝「勝鬨の轡」を探索しているが、万屋という地元の長者の婿に迎えられる次第となっている。後家のお槇(時蔵)、判官に一目惚れしたお駒(梅枝)。女中頭のお熊(萬次郎)に苛められる小萩(右近)は、実は小栗判官の許嫁照手姫(右近)との趣向。お駒と小萩の恋の鞘あてが見物となっている。菊之助は序幕での得意の絶頂から、流浪の果てにいる身の哀れが、より対照的に描き出したい。
 あいだの二幕目は、漁師浪七(松緑)と悪事を企む鬼瓦の胴八(片岡亀蔵)のだましあいが見どころ。松緑、亀蔵の芝居が弾んでいる。
 盗賊風間八郎の菊五郎が要所要所を締める。大詰、絵面に決まるときの大きさは比類がない。ただ、以前よりも菊五郎の比重が少なく、時蔵、松緑、菊之助、梅枝、右近による芝居となって、ここでも世代交替が進みつつのを感じた。時蔵の立役もなかなかの風格。
 菊五郎はこうした芝居では全体を引き締める役にとどめて、他の月、世話物の第一人者としての芝居を期待したい。二十七日まで。

【閑話休題75】いのうえひでのりの『近松心中物語』。

昨夜、いのうえひでのり演出の『近松心中物語』を観た。のちに劇評を書くと思うが、まずは簡単なご報告を。
この芝居は近松門左衛門の浄瑠璃、歌舞伎を原作としている。俳優に歌舞伎役者に対するコンプレックスがあると、
歌舞伎のコピーとなってうまくいかないのをこれまで感じていた。「封印切」や「新口村」の様式的な演技の鍛錬が欠けたまがいものに見えてしまうのである。
今回、堤真一、宮沢りえ、池田成志、小池栄子のふたつのカップルには、こうした歌舞伎コンプレックスがなく、清新きわまりない。
それに対して、いのうえの演出は歌舞伎の演出技法を遠慮なく取り入れている。演技陣の歌舞伎離れと演出の歌舞伎への固執。
このアンバランスがなかなか上手く働いている。あたりまえだが、歌舞伎の焼き直しではなく、秋元松代戯曲の新解釈となっている。

【劇評98】白鸚、幸四郎、染五郎の襲名。まずは大吉。

 歌舞伎劇評 平成三十年一月 歌舞伎座

あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

高麗屋三代の襲名の席に立ち会う。新春大歌舞伎は、三十七年の時を隔てて、ふたたび白鸚、幸四郎、染五郎の名が、新しい世代に引き継がれた。
ここで私なりの白鸚の思い出を語る。まぎれもない英雄役者で、なかでも青果の『元祿忠臣蔵』の大石内蔵助の端然とした姿が今も記憶に残っている。一九七八年の国立劇場。八代目幸四郎として最晩年の舞台だが、ただ端座するだけで、まぎれもない武士がそこにいる。何もしない藝というが、単に動きがない演技を指すわけでない。動きは最小限であっても、その人物として乱れなくそこにいる藝をまのあたりにした。粗にして野だが、卑ではないとの言葉があるが、八代目幸四郎、初代白鸚ほど、そんな評言が似合う役者を知らない。
今回の襲名で、九代目幸四郎は、二代目白鸚となって『菅原伝授手習鑑』「寺子屋」の松王丸を出した。無駄な動きを排して、きりつめた演技でありながら、子を身代わりに差し出した男の絶望をありのままに描いている。その描線は太く、胆力にあふれている。松王丸の病いとは、身体の病いではなく、人間として、父親として並外れた覚悟を強いられた男の病なのだとよくわかった。「にっこりと首差し出しましたか」と泣き上げる件も様式に寄りかからずに、実がこもっている。新・白鸚がこれまでの蓄積の末に到達した独自の藝が、父の初代白鸚を思い出させる不思議を思う。梅玉の源蔵、魁春の千代、雀右衛門の戸浪、左團次の玄蕃、藤十郎の園生の前と現在の歌舞伎を代表する世代が脇を固めて悪かろうはずもない。東蔵は百姓吾作、猿之助は涎くりに回った「ごちそう」で襲名のめでたさを盛り上げる。
さて、染五郎改め十代目幸四郎は、昼の部に『菅原伝授手習鑑』「車引」の松王丸、夜の部に『勧進帳』の弁慶を勤めて、高麗屋の藝を正統に継承していく覚悟を示す。
「車引」は、勘九郞の梅王丸、七之助の桜丸、彌十郎の時平公の顔合わせ。十代目は、これからの世代のリーダーとして、歌舞伎界の地図を塗り替えていくのだろう。そのためには、今月でいえば、勘九郞、七之助とともにする舞台が大きな鍵となる。思えば、昨年の八月、『野田版 研辰の討たれ』の舞台は、染五郎を中心として今月の「車引」を務めた役者が結集していた。古典ばかりではなく新作歌舞伎に意欲的なのも、染五郎、勘九郞、七之助、彌十郎の強みだろう。
さて舞台の出来だが、この世代はすでに自分自身の本役を見定め安定してきたと思う。まず、勘九郞と七之助ばバランスがよく、長い語りの末に深編笠を取ったときの新鮮さ、顔を見せない場面でも、梅王丸と桜丸が声の調子と身体で描画できている。また、新・幸四郎の松王丸は身体を大きく見せたりする無理からほぼ解き放たれた。力感を肚に落として、でっけえという化粧声を受け止める余裕さえ感じられた。彌十郎は古怪の意味をよく理解して、超自然的な存在であろうとしている。
幹部総出演の口上に続き『勧進帳』となる。平成二十六年十一月歌舞伎座。染五郎として始めて弁慶を勤めたときの配役は、染五郎の弁慶、幸四郎(現・白鸚)の富樫、吉右衛門の義経だった。このときは精一杯の弁慶が、義経を危機から救おうとする役の性根がだぶって胸を打った。
今回も懸命の舞台であるが、吉右衛門との拮抗に力点がある。山伏問答も、弁慶が富樫の追求を洋々と跳ね返すのではなく、薄氷の思いで切り抜けているとわかる。また、義経(新・染五郎)打擲の前、吉右衛門の富樫が、強力の正体は義経だ見破り、義経を守り抜こうとする弁慶の必死な姿に打たれ、すべてを胸に収めて、富樫自らの死を覚悟する藝が圧倒的に優れている。十代目幸四郎の弁慶は、これ以降、富樫への恩を片時も忘れず、芝居を運んでいる。この肚があって、延年の舞も、より深い翳りを帯びてくる。新しい染五郎には、なによりこの役に欠かせない気品がある。華がある。これからの充実が期待される。二十六日まで。
この襲名披露は、二月も続く。幸四郎の『熊谷陣屋』、白鸚の『七段目』がたのしみでならない。